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Vol.251
2024 04/21 Sun.
カテゴリー:

いびつな昇華

最近フロイトの夢判断を解説する番組を見た。夢とは潜在意識、無意識の顕在化というアレである。

 

 

若い頃、フロイトに興味をもったことがあって色々あたったては見たけれど、大抵のことをリビドー、性的欲望に結びつけていて面白かった。結局はエゴなんだよね、人間は欲望の生き物だね、と理解はできてないだろうけど妙に共感することが多かった。ユーモア論なんかも面白かった。

 

 

さて夢が「抑圧された欲望のいびつな昇華」だとしたら、自分が定期的に見る夢をなんと定義つければよいのだろう。自分が長年みるのは、亡くなった身近な人なんかが生きている夢。まあこれは皆あることだろうね。もう一つは不思議なことに「大学を卒業していないから卒業しなきゃ」という夢だ。これは自分がまだ学生気分ということなのか、卒業した実感をもてないのか、どちらなのだろう。自分は決して学業をサボったりしたわけでもなく、それなりに勉強もしたし苦労しながら卒論も書いた。それで卒業した実感をもてないのはなぜだろう。

 

 

悪夢でもないが「いいかげん卒業しなきゃ」とか焦ってることが多いのだから、決して気分が良いものでもない。こんなことならちゃんと卒業式に出ておけばよかった。といっても、出たところで知人もいなかったし、実感につながったかどうかわからないけど。

 

 

話は「夢」という言葉にとぶ。世界各国様々な言語や文化があろうが、寝ているときに見る、フロイトの言う夢と、「将来の夢を教えてください」の夢が同じ単語であることだ。今朝こんなdreamをみてさ、というのと、キング牧師のI have a dream !も同じdream、フランス語もrêve、ドイツ語もtraumか。目標とか願いとか、色々な表現はあるものの、やはり「私の夢は」などと語られる。夢を見たことのない人間はいない(二つの意味で!)し、想像とか空想なくして人は生きていないということか。

 

 

そうなるとフロイト流にいうと「抑圧された欲望」や「いびつな昇華」を知らない人もいない、ということになるかな。皆どこかで親切で真っ当なところがあって、利己的で変なところがある。

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Vol.250
2024 04/04 Thu.
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Sylvain Luc のこと

4月になった。卒業や決算なども3月。年度末という表現もあるからか、年末とは別に3月も何か仕切りなおしたような気分にはなる。確定申告で気づいたが、昨年の夏にやたらとカード決済で散財しており「なんでこんなに?不正使用でもされたのでは?」などとちょっと焦ったけれど、動物病院の費用だったことがわかりホッとしたような、寂しいような。ま、そんなわけで色々なことを思い振り返る月だったのかな。

 

 

そんな中、追悼の意味も含めて(ってわけでもないんだけど)Sylvain Lucの音楽をよく聞いた。3月半ばに58歳にて急に亡くなったらしい。思えば自分にとってのジャズの分野でもギターのSylvain LucとBireli Lagreneの2人がアイドルであった。フランスに住んでいた間もパリ周辺での彼らのコンサートは見逃さなかったし、友人とも「新作聞いた?」とか「ライブ見に行ったよ」などと彼ら2人の話をよくしていた。一度楽器を持って自分の部屋に戻ろうとしていたらアパートの一階に住んでいるおばさんに「あなたコントラバス弾くの?私音楽大好きなのよ。週末うちでパーティーやるから持ってきなさいよ、ピアノ弾く人もくるから!」なんて誘われたことがあった。(こういうところ、すごくフランスっぽいね)そういうところで知り合った人に「どういうギタリストが好きなの?」なんて話になっても、その2人の名前はジャズなどジャンル関係なく、音楽好きの人のなかでは知られていた。

 

 

フランス人の友人のミュージシャンとも「Sylvainと会ったことある?」などとちょっとウキウキしながら話したものだった。たまに「意外と冷たい」「若手を見下すところがあった」とか聞くと「あんな繊細で美しい音楽をやる人が?なんかの間違いだ!」などと反発したこともあった。(でも何人かから、そんな話を聞いたからそういうところあったのかもな)何人かの数少ない友人からも「Sylvain亡くなったねー」と残念がる連絡を受けた。彼らがSylvainに敬意を払っており、よく聞いていることは前々から知っている。しかし妙な追悼文を公に書いたりしないのが実によろしい、見習いたいくらい。こんなところに長々と思い出を書いている私は不粋かもね。

 

 

なんにせよ他のどういったギタリストに影響を受けたのか判断しづらいくらい個性的、上品でありながら、時に情熱的な面をも見せる稀有なギタリストを失ってしまった。オリジナルからジャズスタンダード、シャンソンやポップスまでもレパートリーに加え、決して高みに立って聴き手を遠ざけるようなこともしない。Bireliとのデュオ作品はもちろん、個人的にジャズギタートリオという編成は必然的にハーモニーが薄くなるため一辺倒になりがちと思っているが、Trio SudのCD(特に1枚目と2枚目は)は特別な作品であった。

https://www.youtube.com/watch?v=Q5YDrMXaq8k&list=LL&index=9

 

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Vol.249
2024 03/25 Mon.
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「瞳を閉じて」を観て

「瞳を閉じて」。ビクトルエリセの約30年ぶりの新作。上映が始まってから十日ほどして、なるべく情報や予告などを目にせぬように過ごした後、映画館へ行った。

 

 

映画館には平日の朝九時過ぎ上映なのにも関わらず、八時半過ぎからそれなりに人がいた。開場時間が近づくにつれ人は増えていく。「おしゃれそうな大学生や渋い夫婦まで。やはり『ミツバチのささやき』の影響か。エリセの新作のために平日からこんなに人が集まるなんて嬉しいなあ」とか思っていたら、上映する作品はもう一本あり、開場後には大半の人がそちらに流れていった。彼らの佇まいにどこかヨーロッパ趣味らしいものを感じたような気もしたが、思い込みだったのだろう。結局こちらの劇場は10人足らずの観客。多いのか少ないのか、よくわからない。

 

 

さて作品はある映画のシーンから始まる。エリセ本人がかつて撮ろうとしたと言われる「ユダヤ人の富豪がかつての隠し子を探そうとする物語」だ。主人公は映像作家であったが、その作品を製作中止したことから映画を撮らなくなってしまっている。それだけでもエリセ本人を投影しているのがわかる。

 

 

映画批評の町山さんの解説を聞いたからか、改めて考えると主人公はエリセ本人を強く投影していることがわかる。思えば前作のドキュメンタリー「マルメロの陽光」も毎年マルメロを描こうとしている画家、アントニオロペスのものだった。50年以上前の「ミツバチのささやき」、40年ほど前の「エルスール」(こちらはもっと長く描きたかったが、前編で終えた作品、つまり未完成らしい。個人的には大好きな作品だけど)を経て、彼は悩み続けていたかもしれない。「ミツバチ」の主演子役であったアナが立派な大人になり「瞳を閉じて」に出演するのは集大成のようにも、儀式のようにも感じられた。

 

 

それにしても相変わらずの情景と音、それに物語。映画内映画はもちろん、例えばかつての恋人に自分の好きだった曲を弾き語りしてもらう場面などもよかった。エリセ作品にはアップライトピアノがよく使われるのだが、改めて音色の良さに気づかされた。グランドに比べたらそりゃ音の粒立ちなどは違うけど、素朴さというかなんというか。

 

 

そんなわけで久々の映画館での新作映画の鑑賞はとても充実した時間をすごせた。今までもたまに映画館でエリセの作品やっていたら観に行っていたけど、この作品もしばらく経ったらまた観たいと思う。そのときにはどういうお客さんがまわりにいるんだろうか。

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Vol.248
2024 03/08 Fri.
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鳥山明世代

鳥山明氏の訃報を聞く。子供の頃からドラゴンボールを見ていたし、物心ついた頃からドラゴンクエストなるゲームが流行って、そこらでスライムのぬいぐるみを見るようになった。つまり自分などはど真ん中の世代なんだろう、幼少期学校ではみんな連載中のドラゴンボールの話をしていたし、ドラクエがどうのこうのっていう話をしていた。これまた現代と比べると古い慣習なのかもしれないけれど、テレビを見ている人達はテレビで放映したばかりの話をし、毎週ジャンプを読める人はだいぶ先の話も知っていて得意気にその後の展開を語っていた。自分は兄がやっていたのを眺める程度だったけれど、ドラゴンクエストもなんとなく出てくるキャラクターなどを目にしていた。(もちろん音楽も聞いていたけれど、それは割愛)

その後成長するにつれ、ドラゴンボールを見なくもなったし、ゲームもやらなくなったけど(ドラクエは幼い頃にやらなかった憂さ晴らしするかのように、20代後半の暇な時期にドラクエ3,4,5と毎晩寝る間も惜しんで一気に攻略したものだった。どうでもいいけど、ドラクエ5で選ぶべき女性はもちろんビアンカですよね)、20代半ばに鳥山明作品に触れたことを妙に覚えている。時期はフランス留学していたころ。自分にしてもなんちゅう時期だ、と思うけれど。

いつだったか、フランス語もだいぶわかるようになったころだった。なぜか日本の漫画が恋しくなり、フランスの古本屋で立ち読みをした。手に取ったのがドラゴンボール、しかもフランス語。元々のストーリーも一応知っているので、なんとなく意味もわかったし、少しはフランス語の勉強にもなった。最大限の悪口がImbecile!になっていて、日常会話では(留学生などが)絶対に使わないような表現だけど「ふーん、こんなふうに言うんだ」くらいに思った。フランス語で読んでいるわけなのだから、日本語が恋しくなったというよりは、純粋にその世界を堪能したくなったんだろう。それまでドラゴンボールが好きかどうかなんて考えもせず、読みたいと思ったこともなかったが久々に読み返したら思った以上に楽しかった。

その頃の私なんてキザな文学青年でもあったから「ジョイスとプルーストでモダニズムを極めた後、文学は行き詰っているよね」とか「やはり絵画のようなヨーロッパ映画に比べると、アメリカ映画は国の歴史と同じく幼いよね」とか、まあとにかく青臭くて偉そうなことを考えていた。そんな若造でもドラゴンボールを読むのがこんなに楽しくて懐かしいとは。どれだけ気取っても結局(自分を含めて)人間は大衆的なものから離れられないし、小難しい芸術に触れるとか高尚なことだけで生きていくことはできないな、と深く思ったのであった。クラシックの名曲を聴いてなんとも思わないこともあるし、下手くそなアイドルの歌が妙に心を打つこともある。どうしたって大衆的な、俗物的な性はあるし、そういったことに目をつぶって生きていくのも不自然だ。というようなことを、たまたま読んだフランス語のドラゴンボールに深く考えさせられたのであった。

待ち時間つぶしに書き始めたら思った以上に長くなった。次こそヴィクトル・エリセについて書こうかな。

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Vol.247
2024 02/27 Tue.
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N.Y !!!

演奏について振りかえるのは基本的にはやりたくないし、誰かが(特に演奏内容など)細かく書いているのも読み飛ばすことにしている。「何とかという曲での~さんの演奏が素晴らしかった」っていうの、見方によってはずいぶん偉そうでしょ。偉そうというのは、もちろん共演者を評価するって意味でもそう感じることはあるけど、演奏を意味づける行為自体がね。こっちが余裕でゆったり楽しく演奏しても他者(共演者、お客さん、お店の人などなど)はそんな風に聞こえていなかったり、逆に「いやあ、大変だった」とこっちが冷や汗をかいても他者はすごくリラックスして聞いていたり。キザな言い方をするとシニフィアンとシニフィエというやつだね。そもそも言語じゃない表現を言語で説明できるわけがない。どうしても思うことがあったら、日記やメモにでも書いておけばいい。

立派な御託を並べておいてなんだが、先日の流山のおおたかの森での演奏は印象的だった。演奏の中身には触れないが(音割れしていた?さあ、なんのことでしょう)、たしか2019年の秋頃に日本橋の高島屋で演奏したことがあったのが話の始まり。そこではクラシックの定番曲を中心にコントラバス、チェロ、ヴァイオリンという一見変わった編成でやったのだけど、そこから時々で「おおたかの森でやりませんか」とお誘いいただいていた。しかしそれもコロナ期間中だったもので、結局「感染状況により中止になりました」などというパターンが続いた。たまにできそうなときもメンバーが都合悪かったり、何度もお声がけいただくのも悪いよなあ、などと思い始めていた。「中止になりました」の連絡をするのも心苦しいに決まっている。

しかし日本橋でやってから約4年ちょっと、昨年末にまたお誘いいただいた。共演者も慣れ親しんだ河野君。「決定しました」と連絡受けてからも、今まで何度も頓挫したせいか、どこか「本当にやるのかしらん、雪で中止とかにならないよな?」とか思っていた。結局良い天気で、2月半ばにしては驚くほど暖かく、無事演奏を終えた。ずいぶん久しぶりにあった関係者の方々のお気遣いや義理堅さも非常にありがたかった。(まさか私が忘れていた、感染状況により中止になった回のリハーサルまで気遣ってもらうとは!)

凄く大げさに言うけれど、自分にとってコロナ禍の象徴みたいなものが一つ、払拭されたような気がした。それこそ言葉で大げさに定義づけすぎかな。とにかくあんな寒い中に来ていただいた方々も、来られなかったけれど気にしていただいた方々もありがとうございました。わざとらしく一気に話をかえるけれど、先日ヴィクトル・エリセの「瞳を閉じて」という新作を見て、実に感慨深かった。月末くらいになれば、なんか書こうかな、と思ったけれど、まだ余韻に浸っている。そのへんはまた機会あれば。

それより何より、ちょいと珍しく風邪気味。さっさと治そう。

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