失われた書物
7、8年ほど前、実家のリフォームが行われた。当時ほぼ空き家という感じで家族の荷物ばかりが残る状態で、リフォーム後に誰が住むのか、あるいは貸すのかも決まってない。いずれにせよ自分の物を持ち出すか処分しなきゃいけない。いなくなった人からもらったもの、子供の頃にもらったもの、なんとなくとっておいたもの、とにかく容赦なく捨てた。自分の使っていた机も椅子もタンスも真夏に粗大ゴミとして出した。思えば自分の物だから遠慮なく捨てられた気もする。人のものをあんな思いきって捨てられない。言ってみれば自分にとって第一次終活みたいなものだったかもしれない。
その中で書物がとにかく大変だった。学生の頃から買い集めていた本の量がすごくて、読もうと思ったまま手をつけていない本、再び読みたい本も当然たくさんある。困った。結局全体の9割近くは古本屋の方に引き取ってもらった。たしか稀少な小説もたくさんあったし段ボール何箱にもなったけど、引き取りだったからか全部で1000円にもならなかったような気がする。でも「それなら引き取らなくていいです」というわけにもいかない。そもそも大きな本棚を置けるような家に住んでいないのだから。それに燃やしてしまうのではなく誰かの手にまわるならいいや、と思った。
そんな中たまたま手元に置いたものもある。特に愛着があるわけでなくとも、たまたま古本屋さんに渡す段ボールにいれ忘れたとか、誰かに貸していてその後に戻ってきた、とか。そういう一冊がレイモンド•カーヴァーのものであった。以前に読んだことはあるが、当時は可もなく不可もなくという感じだった。久々に手にとって読むと今までとは違う感覚でとても良かった。わかりやすい情緒、詩的というよりはかなり抑制されたものだがそれが良い。なにせ読みやすいしね。
やっぱりこう、なんとなく手に取れるって環境ってありがたいと思う。ふと甘いものを食べる、ふと音楽を流す、そんなことが大いに安らぎを与えてくれることは多い。たまたま縁あって行ってみたコンサートや舞台が忘れられないものになったり、展覧会が面白かったり。非合理的ということになるんだろうけど、理由を並べる必要のない行動はあって然るべきだね。それこそカーヴァーの小説が私の手元に残っていたことにも理由なんかないし、手にとったことにも理由なんてないわけだ。
「もう詩集も、長編も読むことないだろうし、必要なら図書館行けばいい」と(合理性を重んじて)ガンガン捨てた作品の中で結局買い直しているものもある。人間、そんなもんである。あるいは「昔読んだあれ、久々に読みたい」と思っては「あ、処分してたわ」と、そのまま読み直すこともなく忘れていくこともよくある。それが惜しいとか、持っていたからと言って何かが出来たとも思わない。あのとき手元に残したものとは縁があった、というだけの話。長く生きていれば失うもの、手放すものなど増えるのが当たり前だ。古本屋にて、名前しか知らない作家だけど面白いのかな、とワクワクしたり、稀少な本を見つけて喜んでいた日々がなつかしくもある。あの数々の本はどうなったのだろう。