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Vol.131
2020 08/06 Thu.
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北海道旅行の思い出

演奏家は旅好きな人の方が向いてると言われる。確かにツアーというだけでウキウキしている人などをいくらか知ってるし、おそらくその方が何かと健全だと思う。
ただ自分に関しては決して旅好きというタイプではない。何事もできるだけ近所ですませたい、第一に旅支度が面倒、移動が面倒、空港などの場合は待ち時間が面倒、などと不平ばかりが頭によぎる。不精者なんでしょうね、たぶん。最近は年を取ってきたからか、知らない土地の風景を見る楽しさも少しは覚えてきたし、興味ある土地だったら条件を気にせず仕事も喜んでいたけれど。

そもそも演奏に関係ない旅もあまりしていない。この15年くらいで考えても弓の購入など含めてフランスに、あとは家族に会うので関西やアメリカに行ったぐらいか。あとは全て演奏絡み。そういった要素ぬきで旅行したので思い出すのは例えば北海道とアイルランドくらいか。北海道の話を思い出してみる。
大学の時分に高校時代からの友人二人と牧場めぐりをした。それぞれが好きな(引退した)馬に会いに行こう、てなもので大洗からフェリーに乗って苫小牧まで。トウカイテイオーやグラスワンダー、タマモクロスの墓にも参った。メジロライアンとメジロブライト親子も見た。土曜日には競馬場に行き、みんなで3000円ずつ出してエルムSで勝負したら見事的中。10万はゆうにこえる大金を手にいれたもんで気が大きくなり豪華な旅行になる。まずは焼肉で祝勝会。札幌のホテルは全て満室だったから(土日の札幌のホテルは要予約、ということも調べていない旅だった)、洞爺湖近くまで行って学生にしては高級な温泉付き宿に泊まる。次の日は昼間から寿司食べてまた競馬場。確か二歳の重賞に前日の勝ち分から残った2万円を単勝に賭けたら今度は2着、ただの紙切れになった。二匹目のドジョウ、というやつである。やれやれ。そのまま夜にフェリーに乗り、船酔いと戦いながら関東に戻った。
引退した馬はもちろん、あのとき走っていた馬達も大半は亡くなってしまっているかもしれない。こんなことを久々に思い出すってことは、自分も人並みにこのご時世で旅に飢えはじめているのかもしれない。

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Vol.130
2020 07/28 Tue.
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一つの部屋でじっと

先日友人に連絡したら、「最初は非日常が面白かったが飽きてきた」と言っていた。確かに長い。人は一つの部屋でじっとできないことから不幸が始まる、と言ったのはパスカルだったか。
今月半ばからプロ野球も限定された観客を入れての開催を決めた。数字だけ見るとかつての動きと逆行しているような気もするが、双方が望んでいることなのだろう。ただし演出が気になる。応援歌が禁止されているから、ということでホームチームのみ録音された、あるいはリモートによる応援歌が流される。
こういうときだからこそ、選手達の発声、球が木に当たる音、走る音などに耳を傾けてはどうだろうか。いつか日常が戻ってきたときに好きなだけ騒ぐのだから、今は少しでも普段接することないものを享受してはどうだろう。
一方相撲。このような時期に見にくる人は余程の好角家なのだろう、みんな余計な掛け声もせずに静かに見て拍手をおくる。最後の立ち合いの直前に声をあげる人もおらず、ぶつかりあう音をしっかり聞ける。
正直言って、どちらともテレビで見るぶんには今年の方が心地よいくらいに感じる。さっさと終息してほしいことは前提として、何かと発見があるものだ。
非日常もやがて飽きる。しかし部屋の中でじっとしつつも、何かしら楽しみを見いだしながら過ごす他ない。音楽において影響なく集中できることといえば、作曲や練習など個人ができることを除いては録音くらいだろうか。
ベイスターズは何かと不調で時間がかかりそうだが佐野の成長に期待。あと筒香がアメリカでどこまでやるか。相撲では土俵際の魔術師、正代を贔屓している。今年中に大関になって欲しい

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Vol.129
2020 07/07 Tue.
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コルタサルの短編とリルケの詩

ふと、コルタサルの「南部高速道路」を読みたくなった。よく「ペスト」が取り上げられているけれど、この半年ほどの停滞感みたいなものは通じるかも、と思ったもので。
高速道路で原因不明の渋滞が発生し、人々は何日も車内での生活を強いられる。早く解消しないかと苛立ちながら過ごすも、食事の供給は必要だし、体調悪くする人などもいて、見知らぬ人同士で車を越えてあらたな人間的なやりとりが発生する。ある日、道路が復旧したことが発表されると人々はそれまでのことはなかったように、各々の家に向かい一斉に走り出す。その様子を醒めた視線で描くと共に、不思議な解放感と人間のエネルギーを見せるような清々しいものだった(←ひどい説明。しかも確かめていないので曖昧な記憶)。

読みたくなって探してみるも見つからない。何年か前に実家のリフォームのときに処分してしまったのかもしれない。おそらく「また読みたくなりゃ図書館にでも行けば良い」と思ったんだろう。やれやれ。そういえば「いつかまた行きたいな」などとなんとなく思っていたダブリンもルーアンもジヴェルニーも結局一度行ったきりで、もうすぐ15年ほどになる。時間や経済的余裕がいくらあろうが(注:あるとは言ってない)、海外に行くことも出来ない時代になるとは世の中わからんものである。

リルケの「豹」の世界もこの閉塞感に通じるかも、と今思いついた。檻に入れられた豹はやがて柵しか見えず、柵の外の世界に気づかなくなってしまう。

気を取り直して古本でも、とコルタサルの名で検索してみると、読んだことのない作品が訳されていることを知る。安い。とりあえず柵の外を見据えるためにも「いつか、そのうち」ではなく、さっそく買うことにするか。

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Vol.128
2020 06/29 Mon.
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珍しくインタビュー

先日珍しくインタビューを受ける。ジャンゴの作った音楽を中心にドキュメンタリー映画を製作してるという方からの依頼。
話してみて色々なことを思い出したが、話すことにより気づくことや思い付くことはあるんだなあ、と改めて認識。特に普段話さないような忘れかけていたことを話したから、というのもあるけれども、考えたことのないような質問を受けたというのもある。

このような時代だから面と向かって対話することは決して簡単にできることではない。ただし対話をするように何かに接することはできるはずだ。例えば映画。何かしらの結論や固定観念を見据えながら観るのと、一つ一つの場面に没入しながら観るのとでは同じ時間を過ごしても違う。どうしても人間、固定観念や先入観からは離れられないけれども、そのことに気づかぬようになるとどうしても目が曇る。目だけではなく、耳も鼻も頭も。

映画の制作者の方ともちょうど良い関係性だったのかもしれない。あまりに深く喋った仲でもなく、好きな作家の話などはお互い知っていた。話の中身以外にも考えさせられること、思い付くことが多く新鮮な時間であった。良い作品になりますように。
上映が決まったらこちらにも書きますので興味のある方はぜひ。

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Vol.127
2020 06/14 Sun.
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谷崎潤一郎の正直さ

年に一度くらい谷崎潤一郎の饒舌録を読む。記憶力が悪いのか作品がすごいのか、読むたびに発見がある。
年を取るにつれて東洋趣味に傾く様子や、西洋文化の取り入れ方(そしてそれに傾倒し過ぎるであろう今後=現代)、歌舞伎を中心にする舞台芸術について、奔放に難しい言葉を使うこともなく書いている。日本文学史でも傑作と評される森鴎外の史物より幸田露伴の作品を買い、芥川作品もぶったぎる。媚びることなく偉ぶることもなく、正直に書く、これぞ谷崎さんの真骨頂。

谷崎は舞台に関して脚本がどうだの演出がどうだの、よりも演者を優先させるべきと断言している。「(自分は)正直言って、芝居というよりは美しい娘を目当てに観劇に向かう」などと、はっきりと。「お遊さま」や「細雪」などで多少なりとも脚本にも関わることのある、大作家、谷崎がこう言うのだからどうしようもない。

「自分は作家なのだから脚本にしか興味はない」などと言えたら意気に聞こえるが、人間そんな単純なものではない。以前にあるミュージシャンが「プロとしてやっていくには最低限の技術に+αがなくちゃダメ。容姿、話術、演出でも何でもいい。そう考えるとアイドルも立派なプロ。技術だけを武器に、という意気込みは時には危険」 とSNSで述べていた。妙に腑に落ちたのか、ちらっと見ただけなのにまだ覚えている。純粋に「作品だけ」を評価するというのは現実的に不可能だし、そんなことに徹底する意味も別にない。作品の質さえよければ方法はともかく結果として評価される。有名になった過程や演出方法はともかく野坂昭如とソレルスも作家だし、さかなくんは学者だ。

ともあれ谷崎さんはこの作品に限らず、とにかく正直であり続ける。漱石を誉めたと思えば「明暗」の文句を並べ、自らの変態性を小説にあらわし、(芥川のみならず一般人の)故人に鞭打つようなことも随筆でさらりと言い、逆に評価低いものを熱心に誉めたりする。感性に正直であること、それが谷崎作品の真髄であり作品のエネルギーにもつながっているのかもしれない。

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