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Vol.183
2022 01/23 Sun.
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年明けからの映画雑感

昔から「好きな映画」の話となると、よく耳にしたのが「ショーシャンクの空」。老若男女問わず、多くの人がこの作品を誉めていた気がする。で、20年以上を経て、先日初めて見た。面白かったし、セピア色がかった映像も物語にあうし、音楽もよかった気がする。文句つけようのない映画、映画らしい映画。良い映画とはこういうものを言うんだろう、と納得した。
あとヒッチコックの「泥棒成金」。もちろん面白いけれど、グレイス・ケリーが美しすぎる、で感想の八割は終わってしまう。そう考えるとあんまりの美男美女は映画を味わうのには向いてないのかもしれないね。「裏窓」にせよ「ダイヤルM」にせよ「グレイス・ケリーきれいだなあ」になってしまう。そういや、北欧のカウリスマキなんて監督は(こういっちゃなんだけど)決して美男美女の出てこない映画で味わいがある。個人的に好きで何度も見てる小津作品も「うっとりするような美男美女」という印象はない。(そりゃ原節子も若尾文子も岩下志麻も可愛らしいけど)そういえばこれだけグレイス・ケリー好きなのに、最も好きでよく見たヒッチコック作品は役者の名前もあまり把握していない「サイコ」であった。
またチャップリンの「キッド」も見た。これも相当昔に見たけれど、ある知人が「おれはチャップリンだとキッドが一番好きだよ」と言っていたのを思い出す。彼は両親の友人で私が幼い頃からよく可愛がってくれていた。家族含めてみんなで旅行にいったこともあるし、彼に連れられて二人でムーンライダースやブライアン・ウィルソンのコンサートに行ったこともある。特に親しみのある(子供にとっての)おじさんであるが、彼は昨年から特別な病におかされてしまっている。できれば近いうちに会いたいけれど、会えるかもわからないし、もう私のことを認識できるかもわからない。彼のことを思い出しながら見たのはまた特別か気分になった。長く生きていれば色々なことがある。

そんなわけで「一月はゆっくり過ごしそうだな」と昨年から思っていたけれど、ただでさえ少ない予定や演奏にも延期や中止ということになり、思ったよりもさらにゆっくり過ごしている。活動についてはホームページの予定、お店やイベントの最新情報をご確認を。お手数おかけします。

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Vol.182
2022 01/17 Mon.
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空間とその作用

本来年内に済ます予定だった弓の毛替えに四ッ谷へ行く。年内の予定日の前日に彼から「申し訳ないが明日の午後はできなくなった」との連絡がきたため、年明けとなってしまった。会うと丁寧に詫びてくる。別に弓を多く使う予定の演奏もなかったし(彼には幼い子がいるので)「子供の用事だろうな、仕方なかろう」くらいにしか思ってなかったので、全く気にしていないことを伝えておいた。しばらく四ッ谷ホメリのコーヒーを満喫し、弓を取りに戻るとお詫びに、といつもより質の良い毛を張ってくれたとのこと。ありがたい。
その後新宿まで歩き、紀伊国屋書店へいく。思ったよりも本屋が混んでいてどこかホッとする。ナボコフの講演集やニーチェのツァラトゥストラを取ろうとする若者を見ると関係ないのに「いいぞ、いいぞ」と思う。講談社文芸文庫なんて欲しいけど高級でちょっとした憧れだったよなあ、などと思いながら、その本棚を眺める。相変わらず小綺麗なデザインと光沢紙、強気の値段で小難しそうな小説が並んでいるが、かつて私が特によく眺めていたころとはラインナップも色々変わっている。外国人作家、しかも他では訳されていないような長篇が中心だったはずたが、日本人作家のさほど長くない作品も数多い。20年ほどの間に文庫自体の価格もさらにあがっているようだった。(なおこの国の平均賃金は20年かわってないと聞く、、)
その中から読んだことのある作品の題名や作者の名前を見つけると何かを思い出したり、読んだことのない作品の題名からどんな作品なのか、と想像をふくらませる。ネット購入やキンドルでは得られない「空間による想像」みたいなものを充分に味わう。
その後CD屋。同じような感覚を味わう。フランスでも何度か聞いた素晴らしいサックス奏者のCDが異様に安かったので購入。帰宅して聞くと実に良い。このような偶然の出会いもCD屋ならではだろう。
キンドル、サブスクリーミング、ネット売買が当たり前となると、間違いなく古くさい感覚なんだろうが、やはり空間による作用みたいなものは他では得難いな、と改めて思う。それは場所や物によって想起したり関心をもったり、ふと意識を持っていかれたり、人間の感覚として失ってはならないものなんじゃないかな。もちろん音楽のコンサートだって空間による芸事ということになるのだろう。
と書いたところだが、まだまだ世相は物騒なようで。もうすぐ三年目か。いいかげん収まってほしいものだが

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Vol.181
2022 01/05 Wed.
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2022年の初ボヤキ

2022年になっている。正月に家族と会って出た話題から。

昨年の大河ドラマが渋沢栄一で、時々見ていた。最後の方は(渋沢栄一が長生き過ぎたからか)ちょっとダラダラとしたが、維新志士ではなく徳川慶喜側の方の視点から描いたのは新鮮にも感じた。明治維新という言葉の通り、時代の主役は維新志士であるのだから。ただし彼らを英雄化したのは言うまでもなく明治政府の思惑もある。そりゃそうだ、「将軍(様)を追い出した連中」というレッテルを張られたまま政治を行うことはできない。大河ドラマに限らないんだろうが、維新志士達が「日本のために」「日本を作る」と連呼するのも明らかに作られたものだろう。江戸時代の人間、特に鎖国していたころの人間に「日本」という認識は薄い。なぜなら外国という概念自体がないのだから。

歴史というのは結局作られるものってことだね。たしか以前に黒沢明の「影武者」を観た時に思ったけれど、武田信玄が最高の戦国武将の一人として数えられるのも江戸時代に作られた史観によるものである気がしている。なにせ徳川家康が完敗したのが武田信玄。若い頃数えきれないほど戦に負けていて、父親を追放して嫡男に自害を命じ、側室の子である次男には自分の「信」の字を与えずなぜか孫に与えて家臣たちの不和を作り出した、なんて事実よりも、「天下の徳川でも敗れた、おそるべき武田氏」という図を作っておいた方が面子を保ちやすい。ま、こういうのも私の穿った史観なんだろうな。

思えば「日本の侍」と聞いたら坂本龍馬とか西郷隆盛が挙げられるのかもしれないけれど、言ってみれば維新志士達は侍社会を壊した側だ。侍という言葉も不思議なもので、なにかと使われるね。それこそ「ショパン・コンクールから輝いた侍ピアニスト!」とかそんなふうに。世界で結果を出した人(達)をそう表現することが多いね、侍ジャパンだの。私ははっきり言って「彼こそ侍だ!」みたいな表現は好きじゃないですね。子供が言う分には構わないけど、なんだか幼稚なダンディズムというか、聞いていても恥ずかしくなる。侍ジャパン、とかもどうかならないものか。日本代表でいいじゃないの。

ある程度外国にも知られている言葉なんだろうけど、海外の人達がその言葉にどのようなイメージを持っているかも興味深い。そういえばたしかSerge Gainsbourgの歌で「中国の女」みたいな題名の曲があったはずだが、歌詞にSamouraiと出てきた気がする。なぜかHarakiriも出てくるけどね。作詞者は中国と日本の区別もついていなかったのだろうか。我々もヨーロッパの細かい差異を理解してないことも多々あるし、仕方あるまい。

(付記:一応調べてみたらやっぱりありました。上記の二つだけでなくKimonoまで出てきている。うーむ。https://genius.com/Serge-gainsbourg-les-femmes-cest-du-chinois-lyrics)

 

新年早々、ボヤキというか説教じみた文になったけれど、まあこんな調子で時間ある時は何かしら書いていくのでこちらの方もご贔屓のほどを。つい先週に2021年の締めとして挨拶したばかりだけど、今年もよろしくお願いします。

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Vol.180
2021 12/28 Tue.
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2021 年末の一日

「文体とはテクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題である」
プルーストの評論か何かでの表現だが、時おり思い出している。実際にその通りなんだろうな、とも思うし、他のあらゆることにも通じる気がする。絵画や写真に映像などはもちろん、彫刻や音楽、下手すればスポーツや料理にだってそのまま当てはまる表現かもしれない。どうやるか、ではなく、どうとらえるか、によって物事はかわる。
思えば、フランス語では演奏をinterpreterという動詞で表現することがある。Bach interprete par Glenn Gould(グレン・グールドによるバッハ)みたいな感じに。この動詞は「解釈する、翻訳する」とか訳されることが多いのだが、演奏の際にも自然に使われている。日本語ではなかなかこういうことは言わないね。「反田氏のショパン解釈は独創的だ」みたいな言い方はするけど「あの日はコルトレーンのナンバーを解釈した」などとは言わない。(あ、今さらだがフランス語のaccent記号の入力は面倒なので無視してます、あしからず)
自分は学生の頃、文章がうまくなりたかったし、文体を作れるようになりたかったもので、翻訳の真似事として好きな英米文学の短編を訳していたが、音楽をやるようになって採譜、トランスクライブの作業を始めて「翻訳作業に似てるなあ」と思った。文、音を自分を通して文字化(音符として記号化)する作業という意味でも通じるし、だいぶ昔流行った表現でいうと「脱構築、再構築」ってことなるのかな。そしてフランス語風に考えてみると、「解釈すること」自体が「演奏すること」に通じていることになる。
「なぜ小説家になったのか?」の問いへの正統的な返事が「小説を読んだから」であるように、「なぜ演奏をするのか」に対しては「演奏を聞いたから」となるのかもしれない。それこそ脱構築、再構築という表現が似合うほど聞くことに没入すれば、人は演奏を聞いた時点で演奏しているとも言える。なんの楽器も持たずに、声を発することなくとも。

何やら深そうな話題になったが、もう年の瀬。クリスマスから大晦日までのわずかな平日こそ年末を実感するし、一月も十日ぐらいになってやっと新年を実感するんだろうな。大晦日、年越しの瞬間、正月の儀式めいたことにはどうしても思い入れを持てず、その前後の何でもないような日の方が身近に感じる。これは本当に幼い頃からの習慣だからどうしようもない、この年までそうなんだから一生こうなんだろう。

最後に一応。今年も一年お世話になりました。自分なりに向上できるよう日々励むつもりなので、来年もよろしくお願いします。

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Vol.179
2021 12/20 Mon.
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旅行好き、と思うことについて

引っ越したと思ったら旅が続いた。新潟と熊本、新潟は子供の頃に行ったのと乗り継ぎ程度、熊本は二度目だ。新潟は初めまして、という共演者ばかり、一方熊本は10年以上の付き合いになるトリオ編成。初対面ながら姿勢や演奏に敬意を覚えたり、よく知る間柄の演奏に改めて感心したり、色々と思うことのある期間であった。
何度か書いていると思うが、自分は元来旅行にそれほど興味を抱いていない。どこかにいくのも面倒だし、用事がなければ一日中家にいるのも苦ではない。出掛けるにしても出来るだけ近場ですませたい。何かを食べに遠くに出掛けるなんて信じられない、その交通費と時間を近くのお店で使う方が有意義ではなかろうか、てなもんで。
しかし逆説的にも思えるが、これだけ出不精なもので、どうせ(仕事やら何やらで)行くならばなるべく現地のものに触れるようにしている。そしてある程度自発的に「自分は旅行好きである」と思い込むようにしている。元々運転も好きではなかったが、好きになった方が精神的に健全だろうから、そう思い込むようになった。旅行も同じことだろう。
よってどちらの土地でも自発的に動いた。新潟では寿司や栃尾の油揚げを食し、信濃川を眺め、熊本でもたった一時間ほどの短い自由時間で城のまわりを散歩した。(思えば新潟は二泊したため4、5時間は自由に過ごせたのだから徒歩30分圏内である坂口安吾の碑でも見に行きたかったが、靴が長い散歩に適していないのと人並みに疲れていたため避けた。また機会があればいきたい)まるで立派な観光客そのものである。ものぐさを徹底すると、強制的に動かざるいけないときには必要以上に用事をすませようとする。嫌いも好きのうち、過ぎたるは猶及ばざる如し(←これはちょっと違うか)、なんにせよ極端な行動や思考はどこかで逆説的に似通うこともある。
なんにせよ色々とひっくるめて、久々の旅は楽しめたと思う。このような時代になってからより貴重に感じるし、そのぶん余計に解放感、知らない土地の風景も魅力的に感じられたのだろう。
時勢もより落ち着きを示し、またこのような機会を得られるよう精進したいものだけれど、思えばマスクを手放さない生活になりもう二年が経とうとしているのか。

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