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Vol.188
2022 03/19 Sat.
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久しぶりに触れた本

ものすごく久しぶりに、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいる。ちょうど半分くらいまできたが、想像した以上に面白い。刑事コロンボがモデルにした、というのは有名な話だし、たしか明治時代に日本語に訳されたときも推理小説のように扱われたと聞くけれど、いわゆるサスペンス小説として読める。相手の裏をかこうとするラスコーリニコフとポルフィーリイのやりとりは実に読み応えがある。ただしこの作品、英訳だとCrime and the punishmentだったと思うが、どうもCrimeという訳語が個人的にはしっくりこない。原題のロシア語がどういう単語なのかはわからないが、物語としてはGuiltといった意味合いなのではないかな。その点日本語訳の「犯罪と罰」ではなく、「罪」と一語にしたところは好きだ。罪という言葉には「罪悪感」という意味も多少含まれるような気もするので。もちろん犯罪小説、推理小説として「犯罪と刑罰」みたいに、ちょっとしたどこかの説明文のような無機質な題名に敢えてしたのかもしれないけども。

たしかロシア生まれイギリス育ちの小説家ナボコフが「真の小説家はトルストイで、ドストエフスキーは劇作家みたいなもの」などと少しドストエフスキーを批判するように書いていたが、(彼を批判するつもりはなくとも)すごく納得できる。なにせセリフが長いし、本当にちょっとした舞台めいたセリフが多い。だからこそ読みやすいってのもあるんだろう。しかしスラっと入る短文での(セリフではない)描写も見事ではあるのだけど。

 

そういえば先日もロシアについて嘆いたけれど、日本文学はロシア文学抜きに語れないことを思い出した。二葉亭四迷はツルゲーネフを訳し、尾崎紅葉、内田魯庵もロシア文学に夢中になった。言文一致運動はロシア文学と共に始まった、と言っても過言ではない。日本とロシアは少なくとも言語の面においては非常に影響を受けている。

キャンセルカルチャーが目立っているようで、多少イラっとしているからだろうか、ロシアについて思うこともより多くなっている。(その結果ここに書いているんだろうな)この度のロシアの侵攻により、世界的にロシア人指揮者が解任されたり、ロシアに関わる演奏が中止になったり、しまいにゃドストエフスキーやチェーホフなどに関する学会や劇まで中止になっていると聞く。それがロシアにもウクライナにも「関わらない人々」の精一杯の善意なのだろうか。いやはや。そんな愚昧な思考が人間を愚かな蛮行に導いている。人か簡単に善人(の立場)になれるようなら、戦争なんか二度と起きないし、今までも起きていない。そもそも善行なんて見えないように、気づかないように行われることの方が多いもんだ。

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Vol.187
2022 03/05 Sat.
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ロシアと私

ロシアの愚かさを嘆く。というのは私にとってロシアはある種の憧れの対象であったから。
そもそも高校時代にドストエフスキーに出会ってなければ、どのような人生を歩んでいたのだろう。「地下室の手記」を自分の物語のように読み、「カラマーゾフの兄弟」を通して神とその意味を考え、「悪霊」で個と他者(社会)について考えさせられた。所詮十代の幼稚なガキの考えではあるけれど。
アメリカのアフガン空爆、イラク戦争に対してはっきりとノーを言ったのはフランスとロシアだった。その後フランスに住んだが、(一概には言えないけれど)私が想像したよりAmericanizedされた様子に少し失望したこともあった。アメリカ建国の頃からカフェ文化があったろうに、スターバックスができたら日本と同じように(下手すりゃそれ以上に)行列ができる。アメリカの面白くもなさそうな映画や小説が人気になると「いやいや、おたくの国は他のどんな国にも負けない歴史があるだろうが」などと思ってた。ジャズでも普段は古さをやたら否定して新しいことをやりたがるくせに、アメリカの伝統的なスタイルのミュージシャンが来ると一瞬で満席になり、拍手喝采。「なんだよ、この二枚舌の権威主義は」と呆れることもあった。(これに関しては今思えば私が間違えていた気もする。新しいものを好むことと伝統を好むことは両立する)
ちょうどその頃、私はクラシック音楽をよく聞くようになった。教会やホール、野外などで格安で聞けるコンサートを探しては足を運んだ。色々な音楽家や演奏家を知るにつれ、多くのロシア人がアイドルになり、ショスタコーヴィチやラフマニノフの曲に魅了された。ロシアの音楽家が特集されている音楽雑誌を手にしては、辞書をひきながら読んだ。今でもフランスの作曲家や奏者よりもロシアの方が贔屓にしている人の数は多い。
そんなこともあり海外旅行にはあまり興味ないけれど、ロシアにはいつか行きたいと思っていた。ハイフェッツ、ミルステイン、オイストラフ、リヒテル、ホロヴィッツ、ピアティゴルスキー、ラフマニノフ、亡命した演奏家の数も枚挙に暇がないが、いずれの人からも民族性を思わせる風格を感じさせ、ジャンルや楽器は違えど自分もそのようになりたいと思えた。どこに住もうと活動しようと個性があふれているところも憧れだし、それは音楽のみならず他の分野でもそうだった。(そういえばタルコフスキーの「サクリファイス」は何度見たことか。あの映画によりマタイ受難曲を知った)
もちろん歴史的に考えると日本にやったこともひどいし、スターリンやベリヤのような人間を思い浮かべると、国の体系や政治を支持したいとは微塵も思えなかったが、そのような社会の中で個人が多くのものを産み出したエネルギーにはすごく関心があったし、敬意を払っていた。
そのロシアが一部の権力者により、このようなことになってしまっていることにショックを受けている。もちろん被害を受けているウクライナの人々を重んじるのが第一だし、彼らが救われるのが最優先であることは言うまでもない。戦争犯罪者達は必ずや厳しく罰されるべきだと思う。が、自分にとってのロシアが違う国に変貌していくことが妙に悲しい。毎朝起きるたびに、戦争の終わる兆しがないかチェックしてしまう。早くこんな日々も終わることを切に願う。

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Vol.186
2022 02/27 Sun.
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「やむをえない」戦争とは

戦争が始まった。何よりウクライナ国民が日々おびえ危機に直面しながら暮らす日々が一刻も早く訪れることを願う。
冷戦は結局終わってなんかいなかった(そもそもいつ始まったのか?)とか、ロシアの狂いっぷりや米英の無責任ぶりなど色々と思うことはあるが、結局苦しむのは当事者達だ。それはウクライナ人のみならず、ロシア兵も。
以前ブッシュがイラク侵攻を決め、しばらくした頃にアメリカ人兵士がイラク人を虐待したとのニュースがあった。女性兵士が全裸のイラク人男性の局部を指差しニッコリと笑い、イラク人は顔を隠している写真を見た。もちろん人道倫理に反しているとアメリカもニュースにし、たしかラムズフェルトが「軍の規律を見直す」とか述べた。私は「何を言ってるのやら」と思った。戦争ってそういうもんでしょ、と。たとえ命を直接奪わなくても、人道倫理を全て否定して、関わる人々全てを精神的に追い詰めて狂わせていくのが戦争であり、それを始めたのはアメリカ政府だ。私にはその女性兵士も被害者にしか思えなかった。
そもそも戦争法なんてものがあるのも昔から理解できない。法にのっとった「正しい戦争」と「間違った戦争」があったとしたら、正しい戦争の被害者は「やむをえない被害者」で間違った戦争の被害者は「可哀想な被害者」だというのか。その線引きは誰が決めるのか。
銃で打たれて戦友に「これを母国の妻に渡してくれ」と思い出のペンダントを渡し、戦後に奥さんがペンダントを受け取り咽び泣くような場面はフィクションの世界にしかない。預けられた方も数秒後に死ぬかもしれないし、そのペンダントは相手に略奪されるかもしれない。あるいは預けられた方も何かのためにペンダントを売り払うかもしれない。
戦死と言っても(フィクションのように)それほど苦しまずに亡くなる割合なんてどれだけのものだろう。足を怪我して行軍中に置いてかれる、飢え死に、栄養失調による病気、感染症、行軍中に川に落ちる、崖から落ちる、地雷等の罠、毒。パッと考えるだけでこれだけ思い浮かぶが、おそらくこのどれにも当てはまらない死因も山ほどあり、全て「戦死」という言葉にまとめられる。そしてどの死も「やむをえない」と言われる、一人のために行軍や作戦実行やめるわけにいかないから。日頃国民の命を、とかなんとか言っても戦争になればこんなもんである。狂ってるね。
テロに屈するわけにいかないから、自国の安全のために、「やむをえず」行われる戦争、と人は言う。「やむをえない」と結論を下すのは誰なのか。そしてそれに同調する人々を含め、彼らは被害者の前、遺族の前にしても「やむをえなかったから、納得してくれ」と言うのだろう。もちろん身近に被害者が出ても涼しい顔で「やむをえない」と納得し、数秒後にはありふれた日常を過ごすんだろう。やっぱり狂ってるね

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Vol.185
2022 02/15 Tue.
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近況報告とそれに伴う言い訳

この間は音楽や自らのことについて具体的に語るのは無粋、と啖呵をきったけれども、他分野のことばかり知ったような顔して書いてもさかしらみたいだし、たまには恥ずかしいとわかっていても記録として書いてみようか。言うことがコロコロ変わること自体が無粋な気もするけれど、これは変わり身の妙ということにしておく。柔軟性というやつですな。
前置きはともかく。最近は空いた時間でひたすらチェリストに教えてもらった、チェロの教本を弾いてます。同じようなモチーフの曲ばかり並んでいるけれど、弓の細かい使い方だけ指定されてるエチュードを、小学生の宿題のドリルみたいにこなしている。手こずる曲はとことん手こずるので何日も取り組んだりしてる。そんなことをやっていると、ここ何年かずっと弓の技術について特に悩んでいたのが顕在化していくような気分。まあ実際の演奏にどう反映されていくかはわからないけれど、何度もゆっくり弾くだけであっという間に時間は過ぎる。
あと、これまた半信半疑だけれど、久しぶりに筋肉のトレーニングも。元々「体鍛えて上手くなるなら、スポーツ選手が楽器弾けばいい」くらいの考え方で、今でもそうなんだけれども、最近聞いている人の音色から腕の重みみたいなものを感じたもので。ま、これもやったからといってどうなるかはわからない。

物事はわからないことだらけである。今後世界がどうなっていくかも、ウクライナがどうなるかもわからない。最近(でもないか)「論破する」とか実に幼稚で醜悪な表現が流行ってるけれども、なんかもう文字を見るだけで恥ずかしくなる類いだね。基本的に言い合いなんて不毛なものだが、論争気取りの幼稚な争いは余計に不毛で醜い。誰だって個人の権利として言いたいことを言う権利はあるもんで、それは尊重されて然るべきってことは全くの別の話で。そんなわけで仮に「あなた、そういうこと長々と書くの無粋といってましたよね?ダブルスタンダードじゃないですか?」と言われても、私は知ったこっちゃありません。あしからず

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Vol.184
2022 02/08 Tue.
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二月前半

時間ばかり増えて困る。多少あった二月最初の予定もすべてなくなり、一月末の予定もなくなった。生存報告のような意味も込めてまたここに文章を記すことにする。音楽のことについて自分のことも他者のことも具体的に書くのは不粋な気もするので割愛するけれど(というか、ある時期からずっと割愛しているけれど)、冒頭に「困る」とか言ったけれど、実はあまり困っていない。とにかくやるべきこと、身につけたいことが多すぎるもので。

 

先日たまたま谷崎の本が目に入ったのでそこから『鍵』を読んだ。個人的には谷崎潤一郎という人は「日本人の誇り」「世界的作家」として売り出しても良い人だと思っている。若い頃から晩年に至るまで、ずっと精力的に書き続け、しかも物語の展開は実に多彩で面白い。文章は上手いが、決して技術におぼれることなく、それでいて深い。アメリカのロストジェネレーションを始め、海外の多くの作家からも尊敬され、影響を与えている。もちろん人によって好き嫌いはあるだろうけど、どれも名作で随筆や独り言みたいな文章だって面白い。そんな彼の晩年の代表作が『鍵』なのだが、久々に『鍵』を手に取り読んでみると。。。「日本の誇り」とか先ほど書いたのが訂正したいほどの気分になる。もちろん面白い、読み始めると展開にひっぱられる。しかしまあ、なんというか変態ですね、この人。『瘋癲老人日記』も同じく晩年の佳作なのだが、同じくらい奇妙な性的趣味と言える。とはいえもともと『卍』やらもそうだし、そういう人なんだけど。

「人類の誇りともあろう谷崎はド変態」という結論じゃせっかくの生存報告も味気ない。今は最近手に入れた(買ったのではなく、もらったので「手に入れた」という書き方になる)、昨年出版のベンヤミンの随筆を読んでいる。なんだか今の時世にあっている気のする、味わい深い箇所があったので自分のためにも抜粋しておく。

 

人類は、その必要があれば文化が終わったのちにさらに生きながらえてゆく心構えをもっている。肝要なことは人類が笑いながらそうするということだ。もしかするとこの笑いは野蛮にきこえることがあるかもしれない。それでよい。ときおり個人が少しばかりの人間性を大衆に引き渡すということもあだろう。大衆はいつの日か、複利をつけてそれを個人に返すことになる。『経験と貧困』

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