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Vol.128
2020 06/29 Mon.
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珍しくインタビュー

先日珍しくインタビューを受ける。ジャンゴの作った音楽を中心にドキュメンタリー映画を製作してるという方からの依頼。
話してみて色々なことを思い出したが、話すことにより気づくことや思い付くことはあるんだなあ、と改めて認識。特に普段話さないような忘れかけていたことを話したから、というのもあるけれども、考えたことのないような質問を受けたというのもある。

このような時代だから面と向かって対話することは決して簡単にできることではない。ただし対話をするように何かに接することはできるはずだ。例えば映画。何かしらの結論や固定観念を見据えながら観るのと、一つ一つの場面に没入しながら観るのとでは同じ時間を過ごしても違う。どうしても人間、固定観念や先入観からは離れられないけれども、そのことに気づかぬようになるとどうしても目が曇る。目だけではなく、耳も鼻も頭も。

映画の制作者の方ともちょうど良い関係性だったのかもしれない。あまりに深く喋った仲でもなく、好きな作家の話などはお互い知っていた。話の中身以外にも考えさせられること、思い付くことが多く新鮮な時間であった。良い作品になりますように。
上映が決まったらこちらにも書きますので興味のある方はぜひ。

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Vol.127
2020 06/14 Sun.
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谷崎潤一郎の正直さ

年に一度くらい谷崎潤一郎の饒舌録を読む。記憶力が悪いのか作品がすごいのか、読むたびに発見がある。
年を取るにつれて東洋趣味に傾く様子や、西洋文化の取り入れ方(そしてそれに傾倒し過ぎるであろう今後=現代)、歌舞伎を中心にする舞台芸術について、奔放に難しい言葉を使うこともなく書いている。日本文学史でも傑作と評される森鴎外の史物より幸田露伴の作品を買い、芥川作品もぶったぎる。媚びることなく偉ぶることもなく、正直に書く、これぞ谷崎さんの真骨頂。

谷崎は舞台に関して脚本がどうだの演出がどうだの、よりも演者を優先させるべきと断言している。「(自分は)正直言って、芝居というよりは美しい娘を目当てに観劇に向かう」などと、はっきりと。「お遊さま」や「細雪」などで多少なりとも脚本にも関わることのある、大作家、谷崎がこう言うのだからどうしようもない。

「自分は作家なのだから脚本にしか興味はない」などと言えたら意気に聞こえるが、人間そんな単純なものではない。以前にあるミュージシャンが「プロとしてやっていくには最低限の技術に+αがなくちゃダメ。容姿、話術、演出でも何でもいい。そう考えるとアイドルも立派なプロ。技術だけを武器に、という意気込みは時には危険」 とSNSで述べていた。妙に腑に落ちたのか、ちらっと見ただけなのにまだ覚えている。純粋に「作品だけ」を評価するというのは現実的に不可能だし、そんなことに徹底する意味も別にない。作品の質さえよければ方法はともかく結果として評価される。有名になった過程や演出方法はともかく野坂昭如とソレルスも作家だし、さかなくんは学者だ。

ともあれ谷崎さんはこの作品に限らず、とにかく正直であり続ける。漱石を誉めたと思えば「明暗」の文句を並べ、自らの変態性を小説にあらわし、(芥川のみならず一般人の)故人に鞭打つようなことも随筆でさらりと言い、逆に評価低いものを熱心に誉めたりする。感性に正直であること、それが谷崎作品の真髄であり作品のエネルギーにもつながっているのかもしれない。

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Vol.126
2020 06/03 Wed.
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アメリカの事件で思い出したこと

フランスで暮らし始めた頃、とにかくイライラしてた。電気ガス水道、携帯電話、ネット環境などの契約も言葉は通じないし、向こうが何言ってるかもわからない。英語わかる人呼んで必死に喋るばかり。受け取らなきゃいけない郵便物も集合ポストの宛名を何度も剥がす愉快犯のせいで届かず、わざわざ郵便局に取りに行く。40分くらい並ぶのはザラで一時間以上かかることも。
そんな中、区立の音楽院の受講料とか調べたいもので地図を見ながら音楽院まで行く。パリの地図見るのも慣れておらず、迷いまくってやっとついたら「バカンスのため秋まで閉じてます」の張り紙。ますます不機嫌になって近くの公園を歩いてたら「元気?」とホームレスっぽい背の高いおじさんが声かけてくる。イライラと「いや」と返す。一応(どこかで習った通り)「あなたは?」と聞くと「ご機嫌だよ」と。私の言語能力を汲み取ったか、すごくわかりやすくゆっくりと「空は綺麗でパリは綺麗な街だからな、ご機嫌だよ」と語り、微笑んで去っていった。ごくたまーにだが、その時のおじさんはどうしてるかな、と思い出す。
1ヶ月ほど滞在したときの別の話。Boulou, Elios Ferre兄弟に招かれてManouche Factoryというイベントのクロージングアクトに参加した際、ある(ほぼ私と同世代の)ギタリストに絡まれた。その時に初対面だったが、なんで日本人がこんなところに来た、と言われ「ブールーとエリオスに誘われた」と答えると「彼らがお前みたいな日本人を誘うわけないだろ」と嘲笑う。やがてエリオスが来て私を歓迎してくれると、わかりやすいぐらいに彼の態度が豹変した。「よかったら参加してくれないか」と言われ一曲演奏。その後彼は退場し、ブールーとエリオスと私の三人で4、5曲ほど演奏した。終わった後ブールーとエリオスと談笑していたら私に「素晴らしいベースだった、いつか日本でも演奏したいね」などとニコニコしていた。私は二度と彼と関わりたくないと思ったし、今どうしてるかも知らないし興味もない。
前者のおじさんは黒人、後者のギタリストはジプシー、黄色人種である私と同じく被差別の立場だ。差別はなくならない、とよく言われる。それで「だから仕方ない」などと、現実を知っているような風を吹かすだけで済まそうとする姿勢こそ最も醜悪であることは歴史が証明している。
#Black Lives Matter

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Vol.125
2020 05/25 Mon.
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ユリシーズ考 2

「ユリシーズ」について再び。主人公であるレオポルド・ブルームは38歳、かつてはその年齢の男の思考を想像していたものだが、とうとう今年追い付いてしまった。いやはや。

さて(つい先に書いたばかりの話題だが)人は代わりを求める。完璧な代わりになり得ないにせよ、本人が意識していないにせよ、何らかの形で失われたものを求める。レオポルドはスティーヴンに失った息子を見いだし、スティーヴンは亡くなった母親、不仲になった父親を求めさまよう。モリー・ブルームはおそらく失った息子とかつての恋人を愛人であるボイランに求めている。この物語に限らないだろうが、プルーストではないけど各々「失われた時をもとめて」いる、とも言える。
また注目すべきは英雄オデュッセウスのパスティーシュとして描いているにも関わらず、ヒーローらしくないレオポルドの姿だ。文通相手に卑猥なことを書き、酒場で絡まれたら逃げ、砂浜で若い女性に欲情し、イギリス兵の喧嘩の仲裁に入りアタフタする。その息子の役割であるスティーヴンにしても授業後に質問に来た子供に補習するも子供が理解できないと「この無能のデブガキ、死んでしまえ!」と心の中で思ったりする。ただその後に「でもこの子にも、この子を愛する母親がいる」と思いだし、結局その子が理解するまで補習を続け、その子が理解したら「さ、遊んでおいで」と校庭へ走らせる。モリーは不貞の妻であり、愛情深いところも見せる。砂浜の足の不自由な若い女性は天使と娼婦の役割を同時に担う。
彼らだけでなく、あらゆる人物の中に善と悪(と分けるとすれば)、2つの概念が共存している。私が「ユリシーズ」に惹かれた理由もこういったところにもあるような気もする。優しさは冷淡なこともあるし、普段気弱な人が突然気丈になったり、身勝手な人が献身的に何かをすることもある。モリーと不倫するボイランもどこかで何かを救っているかもしれないし、レオポルドはそれを知っているかのように妻が愛人と会うことを知りながら外で時間をつぶす。偉そうなことばかり言っておきながら土壇場で逃げ出すマリガンも暴れるイギリス兵もどこかで人間味にあふれている。完璧な人間はおらず、不完全だからこそ失われた「代わり」をもとめ、それを許容する。禅や老荘思想のような、ちょっと東洋思想にも重なるような世界観はどこから来ているのか。次回はそのへんのことを。

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Vol.124
2020 05/22 Fri.
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余人には代えがたい、について

基本的に「代わりがきかない」みたいな話は信用しない。大抵のものは代わりがきく。ボブ・ディランの歌詞にもあったかな、they say everything can be replaced、と。
「~さんの代わりはきかない」というような表現は誉め言葉と扱われるし、「お前の代わりはいくらでもいる」みたいな表現をパワハラめいた意味合いにとらえることも多い。私も元来、権威的な態度や表現は嫌いだが、仮に「お前の代わりはいくらでもいる」と言われたら「そりゃそうだよ」くらいにしか思わない。自分しかできないことなんてそんなにないだろうし、仮に他の人にできなかったとしても、時間かければできるようになる。ダルビッシュがいなくなっても入れ替わるように大谷が出てきたし、筒香がいなくなってもまた横浜の強打者は出てくる。(ちょっと違うか?)

と、こう書いているとひどく後ろ向きなことを言っているようだが、そんなつもりもない。自分がたまたま与えてもらった役割なんて自分じゃなくても務まるし、他にやりたい人もいるかもしれない。だからこそ「たまたま」与えてもらった役割を懸命に果たすべき、という話だ。そうでなきゃ本当はやりたいけれど「たまたま」そこにいない人達に譲ってもいいはずだ。

つい最近まで「余人に代えがたい」と言われていたにも関わらず、隠れて賭け麻雀に興じていた人がいた。(彼自身や彼にまつわる話についてはここでは述べない。他所のところでたっぷり述べている)仮にその評価の言葉が真実だったとすると、それは組織として崩壊していることになる。出来立ての組織じゃあるまいし、代わりの人材も育てられなかったなんて、今まで何やってきたの?ってなもんで。

と、ここまでその表現の文句を連ねておいてなんだが。「代わりがきかない」と思うほどの関係性は非常に貴重だしある種の美しさもある。憧れや恋愛、友情だってそうだろう。仕事上のパートナーシップでもあるかもしれない。めったにない、奇跡的なことだからそれは心して享受するようにしている。突き詰めれば(残念ながら)錯覚なんだろうけれど。

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