>

Kyohei
Abe
OFFICIAL BLOG

阿部恭平の
ブログ

阿部恭平の広告

阿部恭平のINSTAGRAM

  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
Vol.246
2024 02/13 Tue.
カテゴリー:

他者は地獄である、とサルトルは言った

昔、自分が小学生だった頃。ある女子児童Aが複数の男子児童と言い合いをしていた。言い合いが激しくなった頃にある別の女子Bが「もうやめなよ。A一人が悪いみたいで可哀想じゃん」と仲裁に入った。そうしたらAは泣き出した。するとその女の子が「ほら、A泣いちゃったじゃん。謝りなさいよ!」と。私はその言い合いに参加してなかったが「いやいや、泣かしたのはBさん、君だよ」と思った。このようなことは(特に子供に)よくある。すごく雑に言うと「自分は可哀想」と自覚してしまったのが泣き出した理由だね。言い合いしていた時は興奮していて気づいてなかったのに。

慰めの言葉が悲しみを生んだり、悪口が怒り以外の感情を生んだり、人間色々なことがある。先日ある漫画の原作者が命を落とす痛ましい事件があった。私は原作もドラマも見ていないし、原作者本人、脚本家、テレビ局、出版社のコメントなどを目にした程度だ。上記の様々な立場の人が糾弾されているようで、かく言う私も「エゴが出てるなあ」とか「これは言うべきことじゃないね」とか色々思ったことはあったけど、各々についてはここでは問わない。痛ましく残念に思うが、一灯を捧げるゆかりもないので、故人についてもこれ以上の言葉はかけないし、説教じみたことを言うつもりもない。

先ほどと同様、雑に、というか乱暴な結論を言うと、この事件のきっかけはSNSそのものだと思う。世間の声とやらも発されず、脚本家も原作者も言葉を発することなければ、おそらくこのようなことにはなっていない。おそらく故人には「知らない誰かの声」が聞こえていた。それら全てが故人を攻撃するものに限らずとも、そういった声に精神をすり減らしたことは容易に考えられる。実際にあったかどうかも知らないけれど、例えば「漫画は大好きだったぶん、ドラマにはガッカリしました」なんていうファンの声にも責任を感じてしまったのかもしれない。なんにせよ、本来聞こえないものを全て聞こうとし、そんなものに向き合うと精神的に追い詰められることは大いにありえる。例えば昔の作家は編集者など関係者を通してのみ、読者の感想を聞くだけで、編集者とケンカすれば一応それで済んだのかもしれない。

自己肯定、自己顕示やらでSNSの効用みたいなものも語られるし、最近は収入にもつながるという。ただしそれを理由に精神的に追い込まれるのはね。ちょっとした気晴らしや暇つぶし、と割りきる方が健全なのかもしれない。実際古来からの名だたる芸術家がSNS見て、そこでの自分の評価を気にしていたとしたら、どんな歴史になっていたか。20世紀でいっても、ピカソやグールドやビートルズが自分の投稿への「いいね!」の数をカウントしたり、顔も知らないファンの声につぶさに向き合っていて仕事がはかどったとは思えないね。所詮はコミュニケーションツールの1つ。道具を使うか使わないか、を決めるのは人であるべきだろう。

私の曾祖母の口癖を思い出した、「何事もほどほどに」。変わらないものは昔から変わらずに、ただその通りと頷く。

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。
Vol.245
2024 02/05 Mon.
カテゴリー:

2024、初雪の日に記す

雪の日。予定もなかったので窓の外をよく眺めて過ごした。見ているだけならば雪は好きかもしれない。枝に残る雪や、一面の白くなる風景は美しいし、寒いのに湿気を含んだ空気も独特だ。毎日見てたら飽きるだろうし、明日からの移動を思うと少し怖いが。誰ですか、こんな日だからって「汁そばの出前でも取ろうかな」とか性悪なことを考えている人は?
非日常だから色々と思うことも多いのだろうね、雪国で生活しているのであればなんてことはない。雪が一年に一度降るかどうかというくらいの、絶妙な感覚だからこそ色々考えさせられる。一年に一度、と言ったが、果たしてそれが正しいのかどうか。また来週に降るかもしれないし、毎週降るかもわからない。一寸先は闇。
そういえばベンヤミンのアフォリズムみたいのを読んでいるのだが、どちらかというと散文詩に近いものなのでぼんやり読んでしまうとよくわからないままになる。そのなかで「自分の能力などアテにするな。即興性こそ本物。たいていの試合を決めるのは左ストレートなのだ」みたいな表現があった。「欧米人も左利きの人の割合はやはり少ないのかな、日本と比べてどうなんだろう」とか「ベンヤミンはボクシング好きだったのかな」とか色々思うことはあったけど、妙に腑に落ちた表現であった。ジャズを始めとする即興芸術なんかに関心ある人は反応しそうな言葉だね。
たしかに世の中、(たぶん)思いどおりに進まないことの方が多い。たいていのことは「ふいに」「急に」やってくるし、こちらが「万全」「想定していた」なんてことはほとんどない。あいていると思った予定は別件で埋まり、何か入りそうだと思った日程は結局何も入らなかったりする。思いがけないジャンルや人から誘われたりね。そういう意味では私も今まで(勝敗はともかく)左ストレートで試合を決めてきたような気がするし、左ストレートで打ちのめされている気もする。私だけでなく、たいていの人もそうなんじゃなかろうか。
そんなこと書いていたら、雷の音まで聞こえてきた。青天ならぬ、荒天の霹靂か。雪といい、雷も天からの左ストレートということになるのかな、これは。そうしたらまるでこの世は実質左利きばかりってことになるのかな。

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。
Vol.244
2024 02/05 Mon.
カテゴリー:

Choro pro Zé

1月末、すべりこみのように収録した動画です。たまたま録音の前日にこの曲をやることが決まり、そのとき初めて聞いたのですが、なんとも味わい深くすごく好きな曲になりました。寒い夜などにもあう気がします。よかったらお聞きください。

https://youtu.be/VSRYZ_nHTWA?si=gBySgpVSq5Iw_NiY

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。
Vol.243
2024 01/15 Mon.
カテゴリー:

新年の挨拶と価値について

恭賀新年。今年もよろしくお願いします。

それにしても新年、元旦と共に能登半島を中心に災害。地震の起こるこの国としては誰も恨めないとはいえ、見る景色も話も実に痛ましい。

それでも日常は続く。あっという間に月の半分ほど過ぎた。年末に比べたらずいぶん暇なもので色々と聞きたりなかった音源を聞いたり、読めていなかった本に目を通す。「プルーストとシーニュ」ドゥルーズなんかペダンチックの象徴だろ、と思っていたけど、なかなか面白い。プルーストをネタにドゥルーズが芸術論を話しているような箇所も多いのだが、そこが良い。「偉大な芸術家の作品は常に同じで常に違う」とか。たしかに通底した個性らしきものを感じるけど、マンネリにはならない。まさにドゥルーズさんのよく言う「反復と差異」ということになるのかな。差異とは視点そのものを意味するってのもよかった。

音源について言うと、年を取ると色々なものに対する興味を失っていく、と昔から聞いたものだったが、(そういった面があるにせよ)あえて前向きにとらえると感覚が敏感になっているのではないか、とも思える。興味をもったものを聞いてグッとくるかこないかを察知するのが早いというべきか。何度か聞いたはずなのに特に残らない、なんてものもそれなりにあるけれど、そう見切るのが早くなってきたような気もする。まあこればかりは理屈ではないのでね。

そういえば自分は基本的にスポーツかドキュメンタリー、あとドラマを少しくらいしかテレビで見ないけれど、本来元旦にやるべきものが地震により放送がズレたとか話題になったものがあった。例えば高級な楽器の音と安物の音をあてる、とか、高級料理とそこらの惣菜を見極める、とかそんな類いのクイズ番組らしい。高級な方をあてたら勝ちみたいな話になるんだろうけど、そんな感覚的なこと、それこそ理屈じゃない。そもそもどちらが高いかよりも、どちらが好きかの方がよほど重要だ。さらにいうと、なぜそちらが好きなのか、ということこそ個人の感覚、すなわち個性ということになるよね。そんなに価格だけが大事ならば金貨や高級時計、宝石なんかをジャラジャラ鳴らして、それを音楽とあがめていればいい。さぞ高級な音がするだろうよ。

 

だいぶ暴論になったけれどそんなわけで、今年もよろしくお願いします。もっと良い音で、もっと良い音楽ができるよう日々励みます。(←とってつけたように真面目)

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。
Vol.242
2023 12/28 Thu.
カテゴリー:

Bon courage et on va aller en France à nouveau !

年の瀬。久々に友人のギタリストのアドリヤンがアコーディオンのガリアーノとトリオで来日とのことで先月予約。今月になり「予約したよ」とメッセージを送ると「招待できたのに。キャンセルしておけば?」などと言われる。あらま。
ということで、電話でキャンセルしようとするも、相手方は「招待席が良い場所かどうかわかりませんがよろしいですか?」(というのは、私がそこそこ良い位置での席を予約していたもので)「キャンセル料は生じてしまいますがよろしいですね」などと色々言われる。別にお金が惜しいわけでもないし、面倒くさくなって「あ、もういいです。予定通りで」となってしまう。やれやれ。
見に行くと、ご無沙汰していた知り合いとも何人か会えたが、とにかく久々にアドリヤンに会えたのは楽しかった。後日ベースのディエゴも含め、一緒に食事をした。長年彼の音は聞いてきたし、やりとりはしたことがあったけれど、実際に話すこともできたし教えてもらうことも多かった。相変わらず自分は周りの人々にはめぐまれている気がする。
今年は自分の本厄とやらの名に恥じぬほど嫌なことが多かったが、こういった出会いなどは嬉しかった。つい先日、たまたま祖母の末の妹(5番目)を失い深く落ち込む3番目の妹にたいし「元気出していきなさい、元の生活に戻らなきゃ。自分の心いつまでも痛めてちゃいかんよ」と電話で励ます祖母の姿を目にした。96歳を励ます99歳という不思議な構図。ただ人は必要とされるのが大事なのか、少しシャキッとしていた気がする。
話はかわるが、年末といえば有馬記念。私は「長く活躍するダービー馬」ってだけでちょっと贔屓するもので(というのはすぐ引退するパターンが多いから)、ドウデュースを贔屓していた。昨年凱旋門賞で負けてその後体調がはっきりせず、秋から現役最強のライバル、イクイノックスとの連戦が待っていた。そのレース当日、ドウデュースの馬主の馬がレース後に暴れて鞍上の武豊負傷。イクイノックスにあっさり連敗。そのイクイノックス引退後、武豊復帰のレースが有馬記念であった。これで結果でなきゃ引退か、というところからの復活勝利。馬主も武豊の怪我に責任を感じてるだろうから号泣して抱き合う。それだけでもドラマティックなのだが、JRAが配信しているジョッキーの頭部につけたカメラからの映像がよかった。勝負どころでも頭のぶれない54歳ジョッキーの体幹がすごい、とか色々言うこともあるんだが、レース後に馬から降りて「よくがんばった。また来年いこう、もう一回フランスいこう」とドウデュースに話しかけるような武豊。それと同時に配信はぷつりと終わる。まるで物語のエンディングのようだった。
特に落ち込んでるわけでもないけど、なんとなく自分にも「元気だしていきなさい」と「もう一回フランスいこう」と言い聞かせて年を越していこうと思う。
皆様もどうか、よいお年を。来年も充実の年になりますように。

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。
過去の記事を読み込む

阿部恭平のブログカテゴリー

阿部恭平のブログアーカイヴ

阿部恭平のブログ検索

一番上に戻る