Monet Revisited
先日モネ展を見に行った。改めて考えると自分は結構長い間モネが好きでジヴェルニーの彼の暮らした家にも行く機会があったもので、それなりにモネの作品を見ている方だと思う。そんな私でも今回のは「いやあ、モネ見たなあ」と思えた。オルセーやオランジュリーにもこれほど多くのモネの絵がそろっていることは少ないかもしれない。というのは、あちらの美術館もしょっちゅう(今回のように)貸し出しているからなんだけどね。「モネを中心に印象派を」というパターンの展覧会は日本でよくあるけれど、今回のはモネに特化しているのも良い。ルノワール、ピサロ、コローなど、他の画家の作品もあることはあるけれど、全てあわせても20点未満じゃないだろうか。
またモネの時代と写真の発展を比較しているのも面白かった。ちょうど写真やカメラが普及していった時代でもあったようで、当時の写真を見ることもできる。モネがそれを見て「まだまだ絵画の時代よ」と思ったのか「おーこれは参考になるな」と思ったのかは知らないが、ただなんらかの感情は持ったことだろう。そしてその手の写真、実に味があってよい。今よりも画素数もレタッチも比べものにならないのにね。
以前はモネと言えば日傘をさす女性、あと港の風景画が好きだったんだけれど、最近は特に大聖堂の連作に惹かれる。朝、午後、夕方と、大聖堂が光によって大きく様相が変わる。モネがルーアンに滞在して大聖堂を描いているときに、奥さんに宛てた手紙で「すべてのものは変わっていく。(大聖堂の)石さえも」と書いていたという。彼が描こうと注視し続ける間に変わって見えたのか、彼の観察眼で石の変化に気付けたのか(変わるとは信じられないんだけど)。いずれにせよ画家にとって「何を見るか、何が見えるか」ということは非常に重要なのだろう。音楽家、演奏家にとっては「何を聞くか、聞けるか」ということになるのかな。
そういえば自分はヴェルサイユにもモン・サンミッシェルにも行ったことはないくせに、かつてルーアンにだけは日帰りで行ったことがあった。目的は二つ、作家フローベールの生家(博物館)を訪ねることと、先の大聖堂だった。しかし休日を確かめてから行ったのにも関わらず、フローベールの生家の方は臨時休業。大聖堂を見に行くとやはりモネの影響か、キャッキャと写真を撮る観光客であふれかえっている。当時ひねくれ者だった私は、荘厳なモネの絵のイメージに対して興醒めしてしまったのを覚えている。なんだか虚しくなって一人でバーに行き、名物のシードルを頼んだがそんなに美味しくもない。そのままイライラしながらパリ行きの電車に乗る、失意の旅であった。なお今ルーアンを再訪したら、自分もやっぱり大聖堂でキャッキャと言って、シードルもガレットも大いに楽しむ気がする。やはりモネの言う通り、すべてのものは変わっていく。








