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阿部恭平の
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Vol.240
2023 12/20 Wed.
カテゴリー:

花の下には風吹くばかり

たまたま坂口安吾の随筆を手に取り「ああ、これだったか」と思い出した。日本文化について、例えばワビサビとか黒と赤色だけの御椀とか、そういったものが美とされることについて語る。何もない簡素な茶室、なんていうのは美の境地なわけですね。そこで秀吉なんかはきらびやかな茶室を作ったり、しまいにゃ千利休をあっさり始末したり、と粗野に思われている。しかし安吾は「秀吉のこういう感性こそが真の天下人のものだ」と述べる。
「秀吉こそ真の天下人」という表現がずっと忘れられなかったが、この随筆が出典だったのか、と思い出したのであった。なるほど、主君亡くなった後に一気にでしゃばり、(自らが権力を握るのに邪魔な)先輩や主君の子供達をあっさり排除できるのは、農民出身で武士としての倫理観や美学が乏しいからかもしれない。「こんなことしたら末代までの恥」なんて感覚はあることはあるんだろうけど、織田や徳川よりは薄いだろうね。末代、なんて感覚自体、農民には少ないんじゃないだろうか。名字もないんだから。
そういえば先日、徳川を描いた大河ドラマが終わったようだ。徳川が豊臣を滅ぼすためにやったことも、思えば秀吉の振る舞いの影響なのかもしれないね。ドラマはたまに「あの場面はどう描いているかな」と眺めた程度なもので、どう描いたかは知らないけれど。
話は坂口安吾に戻る。安吾さんは日本文化についても、なかなか過激な意見をもっていて必然性がなければ滅びればいい、てなことを述べる。能も歌舞伎も誰も見ないならなくせばいいし、例えば駐車場が必要ならば法隆寺でもなんでもつぶせばいい。むやみにありがたがる必要はないし、真に必要とあれば欧米、とりわけアメリカの猿真似をしたって構わない、と。
全てに同意はしかねるが、必然というのはわかる気もする。何かを(半ば無意識に)守ろうとすることで、ある種のイビツさを生んだり、窮屈な関係性に陥ったりする。それこそ伝統を守ろうとすることに意味があるのか、という議論は昔からある。税金の話するのもケチ臭いけど、国のお金がつぎまれた寺院や伝統芸能はどうなっているのか。お金がなかったらどうなってしまうのか。私はそういったものに縁がないもので皆目わからない。ただ「こうあるべき」に縛られて破綻するのは芸や文化のみに限られることではないだろう。
もちろん坂口安吾が言っているのは、戦後の日本がどうしていくべきかを見据えた話だ。彼の『堕落論』も誤解されているようだが、焼け野原の日本に対して「堕ちるところまで堕ちてやりなおせばいい」という、前向きなエールに近いものだ。それにしても法隆寺をつぶしたって構わない、とはね。そのへんの大雑把さ、思いきりの良さも安吾文学の精神なんだろう。嫌いではない。
さて問題は必然なのかどうかを見極めるところなんだろうけど、それこそ一番厄介なことなのかもしれないね

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