坂本龍一からタルコフスキー、そしてモンティ・アレクサンダーの話に
先日たまたま知人から坂本龍一のドキュメンタリーの話を聞いた。最後の彼が息を引き取ったあとのシーン、無音であったところがよかった、という意見。なるほど。そこで「戦場のメリークリスマス」など代表曲をかけるのも、陳腐といえば陳腐。みなさん各々かけたい音楽を頭の中で流してください、という方が粋だね。
そんなことを書いているが、実のところ私は決して坂本龍一の音楽のファンというわけでもない。おそらくじっくりと今後語ることもないと思うのであっさりと書いてしまうが、「千のナイフ」とかデビューの頃とYMOの一部ぐらいにしか興味もない。それに対し彼の父上が文芸批評家だったこともあり、彼の本棚はなかなか興味深かった。その中に一つ、アンドレイ・タルコフスキーの随筆があった。原題は「刻印された時間」。以前に読んだことがあったが、また読みたくなって開いてみた。
考えてみたらタルコフスキーもたしか50過ぎで亡くなっているから、自分の年齢が着実に近づいていることになる。やはり慧眼を感じさせる話が多い。「芸術作品についての理解とは、その作品の背景の情報を意味するのでなく、感覚的に好むかどうかを意味する」とかね。ライブのMCなどで曲の説明などで「この曲は何年ごろに、誰それのために作られた、とか、~に影響されて作ったらしく」とか一応述べはするけれど、曲の本質には何も関係ない話だ。そんな情報よりも曲を聞いて「素敵だな」と思う感覚があれば、その曲を「理解」していることになる。ま、そもそも理解というのが正しいのかどうか。共感やシンパシーという言葉になるのかな。
歴史やら理論やらは他者から学ぶことができる。他者どころか、今の時代ならば人を極力介さずとも携帯1つで簡単に学べる。奏法やら技術も人から(一応)学べる。ベースにしたって、どのへん立ちます?どう構えます?、どう指あてます?とか。好きな音色の奏者の動画を何度も、あらゆる角度から見たりするものだ。憧れの人に会えば実際にそんな質問はできる。しかし感性だけは誰からも学べないし、いくら人から語られても影響されることは少ない。
つい先ほど勉強がてら、最近のジャズミュージシャンのオリジナル曲を聞いた。7割ほどのものは「誰がいつ、こういう音楽聞きたくなるんだろう」と思ってしまった。AIにでも聞いて欲しいの?ってくらい、難解で誰かに採点でもしてほしいような曲に聞こえる。やってる人達は本当にいい曲だと思ってるのだろうか。その後Monty Alexanderのポップスをアレンジしたナンバーを見つけて聞くと「やっぱり、こういうのですよ」と心が浮き立つ。先日の来日公演行けなかった悔しさもあり、あっさりCDを注文してしまった。これも感性的行為かな?それとも現代に対する無理解による消費活動か?(←精一杯、小難しい表現をしてみる)









