買い物の話からベルグソンなんかの話に
散歩の話の続きのような話。仕事でも友人との待ち合わせでも、とにかく荷物をもたずに本屋とCD屋がある駅にいく用事があるとき、やや早めに行くことが多い。で、時間つぶしにそのどちらかに寄る。別に何かを探しているわけでもなくても、とりあえず入る。もちろん学生の頃から本もCDも探すのが好きだったから、習慣というのが一番大きい。
最近は何かを買って店から出ることは、多く見積もっても3割くらいか。たいていの場合、色々と物色したあと何も買わずに出ている。自分は何をしているんだろう、とたまに考えていたが、この間ようやくわかった。棚にあるものを見て何かを思い出しているのだ。たとえば「あ、このサックス奏者のアルバム、よく聞いてたな。でも今思えば好みじゃないな」とか「お、この作家、昔読んだな。図書館で探すか」などなど。買いかけてやめたり、ギリギリで買ったり色々なことがあるけれど、それを含めて楽しんでいる。ウェブ上じゃ文字も画像も一度にみるのはかなりスクロールしなきゃならないけど、棚に並ぶものを眺める方が気楽だし好きなんだろう。
視覚はやはり強い。本やCDを目にせずに今まで触れた作品を思い出すのはなかなか大変だと思う。最近ベルグソンの研究家として有名になったジャンケレビッチという人を知り、彼の対談が面白かった。「画家の顔、思い浮かびますか?」という。ダ・ヴィンチでもレンブラントでも誰でもいいけど、モナリザなど作品はイメージできても顔は思い浮かばない人が多い。今で言うと漫画家もそうかな。漫画のメインキャラクターの絵は浮かんでも、作家自身の顔はわからない。「一方音楽家はどうか?」と彼は問う。バッハ、モーツァルト、ベートーベンあたりは大半の人は浮かぶだろうし、ブラームスやスメタナ、(流し目の)リストなんかも見ればわかるだろう。(写真の時代になるとピカソやダリもいるし、話は違うのかもしれないけど)
音楽家の肖像画なんて誰が描いたかも知らないし、似ているのかもわからない。しかも彼らの音楽こそ重要なのに、なぜ意外にも顔を認識しているのか。ジャンケレビッチは「人はそれほどまでに視覚を重要視している」と言う。たしかに脳に最も密接に直結しているのは視神経だとか聞いたこともある。例えば何かを観に行くという行為は脳に直接的な刺激になるんだろう。そうなると、舞台にたつ人間も「演奏さえ良ければいい」などと思い込むわけにはいかない。潔く聞こえてかっこ良さもあるけど、それに依存するだけなのは精神的怠惰に等しい。
話が飛んだ。お店で自分の知らないものだけではなくて「知っているはずのもの」を思い出したり、振り返ったりする時間は意外にも過ぎるのが早い。自分にとってどういうものが残っていて、どういうものが印象に残らなかったのか。それを知ることが新たに現在の自分を作っている気もする。服屋なんか行ってもそんな気分になるかもね。あの頃からこういう服を着るように、あるいは着ないようになったな、とか。
先に名前のでたベルグソン、「人間を形成するのはその個人の過去そのものである」なんてことを言っていて、さらに「直感とは経験そのものである」とも言っている。勘やひらめきの理由を追求すれば、自らの経験を元にしているんだろうし、衝動買いも買う寸前で止めるのも、経験がさせていることなのかしれない。そういう意味でどこかでお金を使うという行為は自分の過去とも向き合う意味で、それなりに学びや発見があったりする。
ただし。最も身にしみて学ぶ(べき)ことは「お金は無限ではない」という真理だけど。









