見るべきか、見ないべきか。それが問題だ
先日の続きみたいな話。視覚がいかに人に印象を与えるかなんて話をたまたま知人としていたら、こんなことを言われた。「ジャズが売れないと言われるのも仕方ないね。(演者が)皆下向いて譜面ばっかり見て難しい顔してる」なるほど。たしかにジャズといえばベテランの演奏家がメガネもしくは老眼鏡をかけて目を細めて、少し身を屈めて譜面台を見ているイメージがなくはない。
まず第一に断っておくけど、自分はかつて20代前半の頃にある店のマスターが誰かに「譜面見てるから、君の演奏はダメなんだよ」とか説教してるのを見て、その偉そうな口ぶりにイラッとして「譜面使って良い演奏してる人もたくさんいますよ」と言い返したことがある。その店が今もあるのかどうか知らないし、調べる気もない。若気の至り、とも思うけど、今も同じことを言いそうである(言わないだろうけど)。
譜面と演奏の質、この手の話はケースバイケースできりがない。今回は見かけの話に終始する。そもそも舞台上で譜面を見ることを当然とみなされているのはジャズくらいじゃなかろうか。クラシックですら伴奏者、オーケストラは別としてソリストは譜面を見ない。ジャズでは使わない人もいるけど、場合によっちゃボーカルまで譜面台を使うこともありえる。譜面を見て演奏する姿から、落ち着いた雰囲気、高尚さを好ましく思う人もいることはいるだろう。しかし逆に、陰気に小難しく見えてしまうことも大いにありえる。
その場で曲を決める、あるいは(準備をしすぎるよりも)その場の感性を優先させる、といったジャズの特性も作用しているんだろう。その場で誰かの要望にこたえて曲やアレンジを決められる音楽ジャンルなんて他には少ない。だからこそメンバーで最低限の枠組の把握のため、譜面を必要とすることが多い。それもわかる。そして譜面なしで(見た目として)魅力のない演奏、譜面を置いても表情豊かな演奏だって山ほどあるだろう。ただ視覚的、という面のみにおいては、譜面がプラスに働くことは非常に少ない。そうじゃなきゃクラシックのソリストもポップス歌手もロックミュージシャンもおそらく譜面台を用意するよね。
これまた、この間も触れた哲学者ベルグソンの言葉で次のようなものがある。「眼がなければ見えない以上、眼は視覚の器官だが、同時に眼は視覚の限界でもある」なんだか小難しそうな禅問答みたいな表現だけど、言い換えると「目があるから見える=目でしか見られない」という当たり前の話になる。例えば実際に見えるわけではないのに、風景が浮かんだ気がする、とか。ちょっと霊的というか、スピリチュアルな体験みたいな話だね。
自分は無学なもんで、哲学なんて読んでもあまりわからないんだけど(プラトンやらカントやら、古いものから踏まえて読んでいかなきゃならないからね、哲学って)、なぜか昔からベルグソンは好きだった。科学者なんかもそうだけど、論理を重んじる立場の学者がこういうことを言える自由さも、ベルグソンの素敵なところだと思う。
そして特にスピリチュアルなどに関心をもつわけではないけれど、こういう表現はすごく理解できる。芸事が好きな人はたいていそうだと思うけど。例えば絵画や写真に感動するのはフィルムや絵の具をこえた何かを感じるからだろうし、「何デシベルを超えたから大きい音」ではなく、小さい音なのに響く音、大きいのにまろやかに鳴る音など。どうみても赤いのにどこかに青も感じる色、とかね。それらは視覚、聴覚とはまた別の感覚の話になるんじゃないかと思う。
そういう意味ではジャズにおいても、譜面を見ていても(まるでそんなものがないかのように)表情豊かに、舞台映えしていれば何も問題はないんだろう。自分は単に譜面見るのが面倒だし苦手だから、何度もやるはずの曲、複雑でない曲なんかは覚えちゃうけども(もちろんその準備する時間や余裕があれば、の話)。









