渦巻と文学
先日クロード・シモンの『綱渡り』を読んだ。この作品を訳したのは大学の恩師。彼は仏文科の教授で自分は英文科なんだけど、恩師と言って思いつく人は彼だけだ。入学して最初のフランス語授業の担任が彼で話が面白かったので、他の講義も聞いてみることにした。
その次年度、彼は休暇で一年間パリで過ごすことになっていて、ちょうど自分もパリ旅行の機会があり連絡を取ったら快く会ってくれた。昼食を御馳走になり、一緒にポンピドゥーセンターでやっているロラン・バルト展を見に行った。その後、セーヌ川沿いを2人で歩きながら時おり目に入るパリの名物を教えてもらった。自分が読んでいる本、興味ある作家の話などについて質問すると、丁寧に答えてくれた。今思えばわかったようなことを喋るだけの若造だったろうに。その後夕食も共にし、たまたま近くでアレッサンドル・デュマがパンテオンに偉人として埋葬される儀式が行われていて、それを一緒に眺めたのを覚えている。
その後、彼が帰国してからも講義を聞きにいった(単位にならないのに!)。あと卒業してからも一度、仏文科の友人の一人が文学賞をとったこともあり、そのお祝いのように友人達と一緒に食事をしたことがあった。
その後も彼の関わった本で興味をもったものは読むようにしている。その中で最近出版されたのがクロード・シモンの初期の小説の翻訳だった。かつて『フランドルへの道』というシモンの代表作を読もうとしたけれど難解すぎて途中でやめた。もともと自分はヌーヴォー・ロマンに含まれる作家たちとは肌が合わない。ヌーヴォー・ロマンを大ざっぱに言ってしまうと文字通り<新しい手法にこだわった小説>で、<文学を知っている人にしか魅力が伝わりづらい小説>などと悪くも言い換えられる。「わかる人にしかわからない」みたいな分野、音楽でも絵画でもありますね。その手の分野の全てがそうとは言わないけど、前提として人を選別したり、どこか高みに立っているような芸術家や、それをありがたがる批評家気取りの連中は今でも本当に苦手だ。(プルーストやジョイスやフォークナーは読み手を選ばないのか、と言われると困るけれど、話が長くなるので割愛)
そんなシモンの小説なもんで、難しくてやめそうだけど読んでみるか、と手に取ってみたら数日で読み終えた。小説を読むのが年々遅くなっている自分にとってはまさに意外なことだった。ある意味シモン自身の青春小説のようでもあり、画家になるか小説家になるか迷った経験からか「ぼくはものを見ることはできるが、(セザンヌのように)何かをみることができない」とセザンヌやグレコの絵を前に悩む場面も秀逸だった。終盤でかわされる、カフェでたまたま知り合った数学者との対話も興味深い。まさかこんな歳になり、これほど(難解で有名な)シモンの小説を愉しめるとは思わなかった。
何年か前に教授の(仏文学者が明治維新を舞台に書いた!)時代小説で益満休之助の存在を知ったし、ある意味で書物という物体を通して教育は続いているのだろうか。もう連絡先も知らないし挨拶もできないけれど、元気にやっていらっしゃるかな。春にまた新刊が出るらしいけど。
そういえば先の話、セーヌ川を先生と2人で歩いた時にある水門のところで渦巻を目にして、彼はそれを指差して「あれこそが文学なんだよ」と微笑んだ。流れに逆らう水がうねって形を作る様相を見ながら、自分は葛藤とか苦悩とか、とにかく芸術につながりそうな『何か』を思い浮かべた。その何年後かにパリで暮らすことになると知らず、音楽を志すなんて思いもしなかった当時20歳の若者は「そうなんですね」と気のない返事をした。








