親和性と正しさ
先日『フラニーとゾーイ』のあらすじについて一気に書いたもんで久々に読もうと思い立つ。が、本棚には原書しか見当たらない。そうだ、いつかに失くしてしまい「原書があるからいいや」と余裕に構えていたのだった。原書を読み始めるも余りにも時間がかかるもんで、結局改めて翻訳本を買った。何をやっているのやら。もうそろそろ「英語読めます」みたいな顔をするのはやめなくてはならない。
それはともかく改めて発見もあった。ゾーイの台詞で「どいつもこいつも良い仕事をしたいんじゃなく、批評家や大衆、それに子供の学校の先生なんかにも『素晴らしい仕事をしている』と感心してもらいたいんだよ」みたいのがある。以前にどこかに書いたと思うけどブランフォード•マルサリスの「若いミュージシャンはどうなりたいか、じゃなく、どう評価されるか、しか興味ないんだ(だからそんな彼らから何かを学ぼうなんて思わない)」という発言によく似ていると思った。ブランフォードはサリンジャー的な人物なのだろうか?
せっかく原書があるのだから、と原文と比較してみる。意味はそのとおりなんだけど、翻訳された文のような印象ではなく、なんというか少し硬いニュアンスを感じた。もちろんそれは自分の言語能力の問題が大きいんだけど、逆に言うと、いくら単語や文の解釈ができたところでニュアンスを掴むのはまた別物なんだろう。音列や構成音がわかってもニュアンスはまた別物、というのに似ているのかな。
こんな時代なのだからその箇所をコピーしてAIに聞いていけば、なんらかの<正しい>答えを得られるのかもしれない。ただゾーイがブランフォードみたいな口調で喋るのと、理知的に落ち着いて喋るのと、どちらを想像するかは読者の自由であるはずだ。例えば刑事コロンボの声、ピーター•フォークの渋く小さい喋りと、吹き替えの小池朝雄さんのおっとりした喋り。本物は前者だが多くの日本人には後者の方が身近だろう。犯人追い詰める時の「うちのかみさんがね、よく言うんですよ」ってのは小池さんの声で聞きたい。大袈裟に言うと親和性ってやつかな。
そうそう、ここで書くことでもないんだけれど。改めて作品を読み返すと、先日自分が<文学と音楽>という欄に書いたあらすじはまとまりが悪い気がした。でも加筆や修正はしない。例えばAIが一瞬でまとまったあらすじを書いたとしても、自分の方が『フラニーとゾーイ』とは身近だ、という自負みたいなものも一応あるもんで。これまた大袈裟にいうと、親和性は正しさに勝るということになるか。
決して「面倒だから」ではないので誤解のないよう。








