>

Kyohei
Abe
OFFICIAL BLOG

阿部恭平の
ブログ

Vol.095
2019 07/30 Tue.
カテゴリー:

アメリカ文学と私との関係

先日お客さんと「学生の頃何していた?」という話から文学の話に。「英米文学科でしたがその頃はアメリカ文学を軽んじていましたね」なんて話をしたけれど、言った後に30歳を過ぎてからはアメリカの作家をよく読んでるかも、と思った。

「アメリカ文学は軽すぎてね。グローバルなアメリカ人だから評価されてるってのもあるし、オースターなんかより安部公房のほうが深いんじゃない?ハハハ」なんて明らかにアメリカの作家をバカにしていた学生の頃。改めて言い分を見てもそれほど愚かとは思わないのに、なぜ転向(大袈裟か?)に至ったのか。

①食わず嫌い、ただの偏見だった
②ドストエフスキーやプルーストみたいなやつに再度チャレンジ!という時間も気力もなくなってきた(そんな言い訳する中年にはなりたくなかったけど)
③軽さの魅力もわかるようになった。

というような理由のいずれか(あるいは全て)と考えられるけれども、私にとっては特にサリンジャーとヴォネガットの存在が大きいかもしれない。「ライ麦畑」や「スローターハウス」くらいは学生の時分にも読んでいたが他の作品に触れ始めたのが三十路前後だ。サリンジャー作品は神経症的な部分があり、ヴォネガットは罪の意識があらゆる作品にあらわれる。(プルーストがフロベール作品には「感情教育」と、ドストエフスキー作品には「罪と罰」と副題をつけられる、と評論で述べているが、その表現を借りるとヴォネガット作品の副題には「God bless you」とつけられるかもしれない)私自身にそういった要素に共感する部分があるのかどうかわからない。が、いずれにせよある時期から妙に好きになった。「フラニーとゾーイ」「ローズウォーターさん、貴方に神のお恵みを」「タイタンの妖女」あたりは繰り返し読んでいる。

そういえば学生の頃から唯一心底敬意をはらっていたアメリカ人作家がフォークナーだったが、サリンジャーと通じる部分があるように思える。一見アメリカ南部の田舎とコネチカット州という舞台は別物に映るものの、グラス家、コンプソン家といった家族を連作で描き、天才青年であるシーモア・グラスとクエンティン・コンプソンのどちらも不可解な自殺を遂げる(@「バナナフィッシュにうってつけの日」、「響きと怒り」)。サリンジャーはフォークナーを意識していたのではないだろうか。


年をとると改めて自分の好みが変わったりわかったりする。昔はそれほど興味を持たなかったヴォネガットやサリンジャーが好きになり、当時それなりに興味をもったアメリカ人作家ピンチョン、バースの作品は私の中に強く残っているとは言えない。
それほど興味なかったボルヘスやカルヴィーノなんかもいつの日か読んだら好きになるかもしれない。これだから年をとるのも悪くない。

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。

阿部恭平の広告

阿部恭平のINSTAGRAM

  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram

阿部恭平のブログカテゴリー

阿部恭平のブログアーカイヴ

阿部恭平のブログ検索

一番上に戻る