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阿部恭平の
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Vol.118
2020 04/20 Mon.
カテゴリー:

ユリシーズの話から「難解さ」について

「私には、難しい、という言葉の意味がわからない。できるか、できないか、の二つしかないはずだ」
八十代を越えてからも気品あふれる演奏を続けたバイオリン奏者、ナタン・ミルステインの言葉。彼のように晩年までバイオリンと向き合い続けた奏者からすると「難しい」などと言っている時点で「真の意味ではできてない=弾けてない」という判断になるのかもしれない。「難しいけど、やりきった」などという表現自体が矛盾になるんだろう。やりきっているならば難しくないし、難しいならばやりきれてない、と。いやはや、おそれいりました。
ミルステインさんほど潔くやっていければ、とも思うけれども、現実的には「難しい」というのはよく使われる表現だ。実際の意味ではもちろん、「大変手の込んだ」というような誉め言葉、あるいは「複雑で性にはあわない」というような文句としても。
似たような表現で「面白い」というものもある。芸事などに関しては「面白い」の対義語が必ずしも「つまらない」になるとは限らず、「面白いとは思うけど興味はない」なんて言い方もある。「ユニーク」みたいな意味合いが強いのかな。なんらかの敬意みたいなものを一応は感じるが「凝ったことやりたいんだろうけど、興味はない」と切り捨てるのが申し訳ない時などにも都合の良い表現かもしれない。
ある人が以前「昔は音楽について面白い、とか言う人はいなかった。かっこいい、感動した、などばかりだった」と書いているのを目にした。最近はみんな「面白い」ばかり言ってる、と結んでいた。面白いと難しい、意味合いは多少違えど、方向性は重なるところもある。個というよりは何らかの他との比較を経た上での評価という点だ。すなわち相対的評価、それに対し「かっこいい」「グッときた」なんかはほとんど個人の感想だ。それでいいんじゃないか。相対的評価なんかはふんぞり返った評論家の先生方(と書くとトゲがあるかな?)なんかにお任せして、素直に思ったことを言えば良い。個人の感想としての「難しい」や「面白い」は自由だが、評価としてのそれらの言葉を喜んだりありがたがる風潮はどうも気に入らない。個人の感覚よりも相対的評価を重んじるような軽薄さが気になるのかな。昔から時おり触れている気もするけれど前衛芸術やポストモダンとやらもみんな「グッとこない」ままだった。
さて話は「ユリシーズ」に戻す。あれを一種の前衛的作品みたいに論じる人もいるけれど、それには一切の迷いなく「違う」と断言したい。T.S.エリオットの評でも読んで出直しといで、と。(←結局、詩人兼評論家に頼ってる)

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