余人には代えがたい、について
基本的に「代わりがきかない」みたいな話は信用しない。大抵のものは代わりがきく。ボブ・ディランの歌詞にもあったかな、they say everything can be replaced、と。
「~さんの代わりはきかない」というような表現は誉め言葉と扱われるし、「お前の代わりはいくらでもいる」みたいな表現をパワハラめいた意味合いにとらえることも多い。私も元来、権威的な態度や表現は嫌いだが、仮に「お前の代わりはいくらでもいる」と言われたら「そりゃそうだよ」くらいにしか思わない。自分しかできないことなんてそんなにないだろうし、仮に他の人にできなかったとしても、時間かければできるようになる。ダルビッシュがいなくなっても入れ替わるように大谷が出てきたし、筒香がいなくなってもまた横浜の強打者は出てくる。(ちょっと違うか?)
と、こう書いているとひどく後ろ向きなことを言っているようだが、そんなつもりもない。自分がたまたま与えてもらった役割なんて自分じゃなくても務まるし、他にやりたい人もいるかもしれない。だからこそ「たまたま」与えてもらった役割を懸命に果たすべき、という話だ。そうでなきゃ本当はやりたいけれど「たまたま」そこにいない人達に譲ってもいいはずだ。
つい最近まで「余人に代えがたい」と言われていたにも関わらず、隠れて賭け麻雀に興じていた人がいた。(彼自身や彼にまつわる話についてはここでは述べない。他所のところでたっぷり述べている)仮にその評価の言葉が真実だったとすると、それは組織として崩壊していることになる。出来立ての組織じゃあるまいし、代わりの人材も育てられなかったなんて、今まで何やってきたの?ってなもんで。
と、ここまでその表現の文句を連ねておいてなんだが。「代わりがきかない」と思うほどの関係性は非常に貴重だしある種の美しさもある。憧れや恋愛、友情だってそうだろう。仕事上のパートナーシップでもあるかもしれない。めったにない、奇跡的なことだからそれは心して享受するようにしている。突き詰めれば(残念ながら)錯覚なんだろうけれど。