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Kyohei
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阿部恭平の
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Vol.134
2020 09/30 Wed.
カテゴリー:

フェリーニの絶望と希望

「甘い生活」という映画がある。フェデリコ・フェリーニの代表作のひとつだ。最後にキリストを象徴する魚が現れたり、美しいアニタ・エグバーグが泉の中に入るところなど様々な場面が有名だが、個人的にはある家族のエピソードが何より濃く残っている。パパラッチをやっている主人公に対し、かつての同僚が語る。「あの頃お前と仕事していた日々が信じられない。今は落ち着いた仕事、愛する妻、可愛い子供達がいて幸せだ。幸せ過ぎて怖いくらいだ」未だパパラッチという仕事をして一日がないような、あるような荒くれた生活をしている主人公は羨ましいような寂しいような感情を持つ。そして自分もそろそろ落ち着いた生活をしようか、と考えもする。一報が届く。「あの家族が亡くなったぞ、一家心中だそうだ」と。
私もそれなりに身近な人間の不可解な、不条理な訃報を受けたり、そういった話を後に聞くことはある。その度にこの映画を思い出す。身近ではないが、最近はニュースで芸能人に関わるものもいくつか目にした。「なぜ、あの人が?」と考え、何かしらの理由を見つけようとする。しかし見つからない。例え思い当たったとしても「それなら仕方ないよね」なんて結論を出せる理由は到底考えられない。その悩みと後悔の念に苦しむのは残された人々だ。まあやめにしよう。カミュさんの言うように、もしも自殺という問題を解決できたとしたら、世の中の哲学は不要になるのかもしれず@「シーシュポスの神話」、あらゆるものは不条理であるし、こんな大層な問題にこんなところで答えを出せるわけがない。

フェリーニの作品で私が一番好きで何度も見たのは「8 1/2」だ。それまでの作品の数を題名にしただけの作品のようだが、悩む映画監督が主人公になっている。仕事欲しい女優に口説かれ、逆に女優を口説き、それらのことは妻にも感づかれている。作品を作ろうにも上手くいかず、批評家や製作側からも批判ばかりされる。もう自分を見限っているであろう妻に「人生は祭りだ、ともに生きよう」と語りかけ、すべてを失いつつある主人公を中心に妻、女優、批評家、昔憧れた大女まで現れて祭りが始まる。希望がないことが終わりを意味するわけではないし、絶望から始まることもある。フェリーニが知るか知らぬかは別にして、バフチンのいう「カーニヴァル性」を含んだエネルギーと悲哀と笑いに満ちた終幕場面になっている。

あの場面には若い頃に何度も励まされたものであった。たぶん今見ても感動するだろうな。

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