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Kyohei
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阿部恭平の
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Vol.137
2020 10/21 Wed.
カテゴリー:

ぼろを着た悲惨な絶望的なガキ

石川淳の随筆の中に『芸術家の人間条件』という作品がある。アンリ・ミショーによる、ハック人という古代人に関するフィクションを取り上げている。ミショーは述べる。「ハック人(Les Hacs)は毎年、子供のうちで<受難者>を仕立てる。明らかな差別と虐待を加え続ける。そうして彼らの中から特別な人間が生まれる。大芸術家、詩人、革命家、天才、ときには殺人者、犯罪者も。社会や風俗に変化がもたらされるのはいつも<受難者>達による。そしてハック人が小国なのにも関わらず常に誇り高くいられるのは、<受難者>=ぼろを着た悲惨な絶望的なガキのおかげなのだ」まるで柳田国男の「一つ目小僧」の世界だ。
 学生時代に石川淳に傾倒した時期があるのだが、その中でも特に印象に残っている話だ。人々から文化人だ芸術家だ、と称賛される存在も本質的には「ぼろを着た悲惨な野蛮人」であるべきなのでは、と。だからといって「今認められていない自分こそ芸術家なんだ、評価されている連中は真の意味では芸術家ではない!」というような世の中を呪うような愚痴に付き合うつもりはないし、興味もない。

昨今国が文化事業を支援する動きが出ている。私も多少は参加するし、それを必要とする人々がいることも理解している。しかしどこか危機感みたいなものも、はっきりと感じている。例えば伝統芸能、国が保護し税金をつぎ込む、その結果どうなっているのか。私も寡聞にして細かなことまでは知らないが、決して普及しているとは到底思えない。なんとなく敷居が高い、そしてチケットが高額、熱狂的な人は熱狂的、伝統として(ある種の義務感を伴って)跡継ぎを作っていかなくてはならない、そのようなイメージが強い。その義務感を伴った教育、とやらは場合によっては窮屈なものかもしれないし、そうでないのかもしれない。いずれにせよ国や人々が指定、あるいはイメージする通りの活動をすれば、それなりの代償を得ることができる。国が出演料を支払う形であれば人々は無料でそれを楽しむことができる。それが後に人々へどのような影響を与えていくのか、具体的には言えないがただ個人的な勘として、あまり良い予感はしていない。

小津安二郎がかつて若い吉田喜重に「小津さんはなぜあのように若者におもねるような描写をしたのか」と批判をされたことがあった。小津は松竹の飲み会で吉田を見つけると近づき挨拶を交わした後にぼそっと「所詮我々は橋の下で客を引く女郎みたいなものだ」と言ったという。今の時代では職業差別とか色々言われるのかもしれないが、この表現も私の中に印象的に残っている。女郎にせよ、<ぼろを着た悲惨なガキ>にせよ、どのような姿勢であるかということになる。天才、芸術家、文化人と呼ばれて浮かれてしまったガキはもはや<悲惨>や<絶望>からは遠いところにいるし、援助してくれる特定の客で安心しきった女郎はもはや女郎ではない。

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