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Kyohei
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阿部恭平の
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Vol.146
2021 01/12 Tue.
カテゴリー:

式ぎらい

元来、式というものに関心が薄い。中学の卒業式を迎える頃からその傾向があり、卒業式の練習なんて時間の無駄だからやりたくない、と保健室でゴロゴロしてた。教師が説得にきても「入学式の準備なんて何もしてないのに、なぜ卒業式の練習なんかしなきゃならないんだ。感謝なんて個々にするもので『ありがとうございました!』なんて声揃えることに何の意味があるのか」などといかにも中学生らしい屁理屈で抵抗していた。
高校の入学式は一応でた。当時の学院長(校長と同義)の話では何年か前に退学した学生を挙げ、印象深かった。卒業式は付属高校であったせいか、ずいぶんさっぱりしたもので、そのあと友人と騒いだことしか覚えてない。

大学の入学式は行かなかった。卒業式も同様。自分は一年長く大学にいたもので、事務室で高校の同級生(彼は事務としてすでに働いていた)から「式出ればよかったのに」「いやいや、面倒でね」とか会話しながら証書を手渡された。ありがとう、N澤君。
その間にあった成人式、もちろん行ってない。何をやるのかも、何をもらえるのかもわからない。たしか徹夜で麻雀(をして朝に地元の駅についたらスーツ姿、着物姿の同級生らしき人達を目にした。いや、昼間に彼らの姿を見たのだろうか。よく覚えていない。
先日再び緊急事態宣言が発された。そのときの記者会見、文面でいくらか読んだが、私はなぜか上記のような「記憶に残らなかった式」を思い出した。意思もなく詳細を語るだけならば、情報をウェブサイト上や新聞に乗せて、文をAIにでも読ませればいい。メルケルの言説が科学的に正しいかどうか、彼女が感情的になりすぎてはいないか、そんなことは歴史が決めることだ。ただし「他の誰か」ではなく彼女が喋ったことに意義があり、その時点でやたらに格調高そうに振る舞うくせに中身のない教師の話や、ただ淡泊に誰かの作った文を読み上げる行為とは異なっている。
どうしてこんなに空疎なのだろう。そのような思いが私から「儀式めいたもの」(あるいは儀式そのもの)を遠ざけていったような気がする。

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