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阿部恭平の
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Vol.147
2021 01/14 Thu.
カテゴリー:

食休みとシモーヌ・ヴェイユ

年末年始、食後の時間にシモーヌ・ヴェイユを読んでいた。根気がないものでいわゆる哲学書(ヴェイユは哲学者なのか?)は苦手なのだが、ニーチェとかヴェイユはアフォリズムが多いので、ぼーっと読むのにちょうどよい。(などと言うと深く読みこむ専門の人には怒られるかもしれないが)

あるブルターニュの少年水夫の話がよかった。おそらく子供を救うとか誰かを助けたとか、そういった少年がいたのだろう。記者から「なぜそんなことができたのか」とインタビューを受けた時に「やらなきゃならなかったからさ」とだけ答えたらしい。これをヴェイユは「最も純粋なヒロイズム、こういうものは民衆の中にどこよりも多く見られる」と評する。理由なんて関係なく、ただ自然に従ってやっただけ。そういった潔さの中にこそ美はあるような気もするし、必然という表現を重視するヴェイユらしい言説だ。しかし次のように結ぶ。「ただしそれは必然への服従であって、圧迫への服従(奴隷たちにおいてみられるおそろしい真空状態)であってはならない」自然に対して従順であることと、権威に対して従順であることの違いを指摘する。なるほど、不平をもらさずただ状況を受け入れる態度はいかにも泰然自若に見えるが、何に対するものであるかは明確にしなくてはならない。自分では冷静に過ごしているようで、無意識のうちに権威や通念にひれ伏してしまっているのかもしれないから。

 

以下、気になった部分を。自らへの覚書のような意味も含めて。私が正確な意味を把握しているわけでもないし、全てに納得しているわけでもない。ただ気になったから記しておく、それだけの覚書である。

 

食料を手に入れるための行列。同じ一つの行いでも動機が高いときよりも、低い時の方がやりやすい。低い動機には高い動機よりも多くのエネルギーが含まれている。問題は低い動機に属しているエネルギーをどうやて高い動機にうつしかえるか。

 

太陽は正しい者の上にも正しくない者の上にも照りかがやく…神はみずから必然となっている。必然の二つの面、行使される必然と受け忍ばれる必然。太陽と十字架。

 

この世の様々な事柄についての幻想は存在に関するものではなく、価値に関するものである。

 

わたしたちは知性でとらえられないものの方が、知性でとらえられるものよりもずっと実在的であることを、知性のおかげで知っている。

 

時間は流れていくことによって、時間に制約されているものをすりへらし、砕き去る。現在よりも過去の方により多くの永遠性がある。正しく理解された歴史の価値はプルーストにおける想起の価値にあい等しい。過去は実在的でもあり、わたしたちよりもすぐれた何ものかを与えてくれ、わたしたちを高みへと引き上げてくれる。こういうことを未来はめったにしない。

 

単調さはありうるかぎりもっとも美しいものであるか、それかもっとも醜悪なものである。それが永遠性の反映であるときには何よりも美しく、変化もなくただ続いていくにすぎないものは何よりも醜悪である。時間を超越するか、時間を不毛にするか。円は美しい単調さの象徴であり、振り子がゆれるのはおぞましい単調さの象徴である。

 

労働者はパンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要としている。

 

民衆に関する詩はどんなものであろうと、そこに疲れ、および疲れから来る飢えと渇きがなければ真正なものとは言えない。

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