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阿部恭平の
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Vol.152
2021 03/04 Thu.
カテゴリー:

「存在の耐えられない軽さ」にまつわる話

L'Insoutenable l'égèreté de l'être、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の仏訳を少しずつ読んでいる。学生の頃に読んで、何年か前に一気に読んで、仏訳は初めて。もちろん簡単ではないが、章が短いので読みやすい。「存在」の仏訳でexistenceとか使われると思いきや、名詞のêtreとは。自分のフランス語の感覚もまだまだだな。クンデラはチェコ人、後にフランス語で小説執筆にとりかかるが、この頃まではまだチェコ語で書いている。(ということでフランス語で読むことに特に意味はない。ただ数年前大量の本を手放したため、手元にフランス語訳しかない。それだけのこと)
自分が二十歳ぐらいのころ、偶然まわりでこの本が読んだ人が多かった。「いい小説だよね」という意見と「大衆受けのメロドラマだよ、あんなの」と評価は見事にわかれた。どちらかというとヌーヴォーロマンを好む友人はこの作品もクンデラも小馬鹿にしていたような感がある。(たしかソレルスとクンデラも言い合いしていたはずだ)クンデラには「小説の精神」という講演と随筆による作品もあり、その中では(特にヨーロッパの古典である)文学に対して敬意を払っているのが見受けられた。古典から脱却しようとする運動とも見えるヌーヴォーロマンとあわないのは当然のことかもしれない。たまたま親しかった教授とクンデラの話になったときに「女性蔑視だ、と批判があるんだよな」とボソッと呟いたことを覚えている。それはたしかに小説内にもよぎることもある。
とはいえ、思えば個人的に、他のクンデラ作品はともかく、この作品を嫌いになったことはない。<カレーニンの微笑>から最後にかけては何度も読み返していると思う。メロドラマ、結構じゃないか、人を感動させる作品の何が悪い。思えば文学に限らず、あらゆる芸事に関してもそんな感覚はあるようだ。前衛、現代~、みたいのにはあまり興味を持てない。谷崎ではないが「媚びるのではなければ(ここが大事なのだが!)、客のことをいくら考えても良い@饒舌録」を思い出す。なんにせよ高尚ぶるもの、「本物なら、これがわからなきゃ」みたいな高みにたったもの、あるいは(書物はともかく)音楽とか絵画や建築なんかをたいそうな理屈で語るのは、どうも眺めていて恥ずかしくなる。
さてこの作品は二人の最後の晩の風景で締めくくられるのだが、電気をつけると蝶が室内を舞い、下の階からピアノとバイオリンが鳴り続けているという、いかにも簡素な描写がニクい。これだけで医者であった頃のトマーシュからすれば考えられないような宿であることがわかる。そうそう、映画もよかったな。ジュリエッタ・ビノシュも可愛い。

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