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Kyohei
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阿部恭平の
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Vol.163
2021 07/12 Mon.
カテゴリー:

チェーホフの言葉から西行の話に

「銃が舞台に出てきたら、それは発射されなくてはならない」たしかチェーホフの言葉だ。なるほど、物語の展開上銃が人の目に入って、そのまま使われることなく話が完結することは少ない。昨今のドラマなどで言えば「爆破装置が出てきたらそれは作動されなければならない」などと言い換えられるかもしれない。実に劇作家らしい表現だろう。(個人的にも彼は劇作家であるよりも小説家と考えたいけれど、それはまた別の話)

おそらく多くの脚本家がこのような定説を覆そうとしたことだろう。あえて銃を発射しない展開を作り出した人もいるはずだ。しかしそれが効果的である作品もしらないし、見たかもしれないけれど何の印象もない。観る側は「銃使わなかったね、ふーん」で終わってしまうか、銃の存在すら覚えていない。予想外の展開は人の興味をひくことはひくのだろうが、こう言っちゃ悪いが裏切りにしては幼稚なのかもしれない。
やはり必然性というものが問われるのだろう。そうなると銃という衝撃的な道具を見せておいて、それを使わずに観客に印象づける、というのは矛盾しているようにも思う。
私は以上のような感想だが、銃をあえて使わない展開を大喜びする人も、銃が出てきた途端に「どうせ発射するんだろ」とウンザリする人もいることはいるんだろう。必然ととるか、マンネリととるかは個人の自由だ。
マンネリといえば、谷崎潤一郎が友人の詩人に意見するような形で、西行があれだけ桜の和歌を詠み続けたことについて触れていた。桜ばかり詠むことにケチをつけるよりもその歌に浸る方が有意義だろ、というような内容だった。一見同じようなことを続けること、繰り返すことによって深みを増すことは数えきれないほどある。それにマンネリであろうと西行ほど桜と付き合えたなら本望だろう。

 

願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

 

この歌の通りの最期を迎えたのは、それこそ西行にとっては必然とも思える、運命だったのかもしれない。

ということで仮にマンネリと呼ばれようと、銃を客席に見せるだけの演技も、その演出も、重ねるほど印象的になっていくかもしれない。それが円熟というものだろうか。ただしそんな役者や演出家が銃による最期を迎えないことを祈るばかり。

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