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阿部恭平の
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Vol.171
2021 09/27 Mon.
カテゴリー:

偏見とコンプレックス

先日、時間をつぶす必要があったので「存在の耐えられない軽さ」の映画を見た。約20年ぶりかな。当時は名前を知っていたかもわからないが、カメラがスヴェン・ニクヴェストだったとは知らなかった。ベルイマンの作品、タルコフスキーの「サクリファイス」のカメラとしての印象しかなかったが、そういえば活動晩年にはアメリカで仕事していたか。さすがスヴェン・ニクヴェスト、と思うような、いかにも彼らしいカットは私には判別つかなかったが、ところどころ鏡を用いた場面は印象的ではあった。
以前もこの作品についてはここで書いた、フランス語訳を読んでるとか(結局途中をすっとばしてカレーニンの微笑を読んでしまった)。作者のクンデラははっきりと「文学において小説という形式はヨーロッパのものだ」と断言している。それについて「(中央ヨーロッパの人間が亡命したことも含め)西ヨーロッパに媚びてる」というような意見もあるし「(「ドン・キホーテ」より前から存在する、例えば源氏物語のような)他の地域の物語を軽んじている」という意見もある。個人的には五割ぐらいはクンデラの言うことに同意してしまうところもあるし、逆に「クンデラはヨーロッパ至上主義だなあ」と感じることもある。実は似たような感覚を奇しくも映画からも感じた。すなわちアメリカ人監督がヨーロッパ映画に憧れて作った感覚だ。だからこそヨーロッパのカメラマンを使い、役者もフランス人、音楽もヤナーチェクにこだわったのかな、と。
クンデラの小説に限らず、人は時おりOccidentalismみたいなものに取りつかれていることがある。やはりオーケストラはヨーロッパだよなあ、(車や建築など)デザインはヨーロッパのものが最高だよ、などなど。しかし「ヨーロッパが本物で他は二流」みたいな考え方は実に窮屈で不自由だ。そんなわけで私も先のクンデラの意見に対するように半分賛成、半分反対みたいな立場であることも多かった。が、ふと「そういう偏見めいた考えや強烈なコンプレックスを抱えたとしても、それから新たなものが生まれるのかも」とも思った。それこそクンデラの小説やウディ・アレンの映画のような。

そんなことを考えつつ、久々に見た映画は懐かしかった。当時は歳上だった俳優達もみんな若く見えた。ジュリエット・ヴィノシュは顔ももちろん、表情が良い。これぞ女優。

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