ボヴァリー夫人と現代の風潮
大学時代お世話になった教授が新刊を出していたことを何年も遅れて知ることになり購入する。「ボヴァリー夫人」の新訳、なんと新潮文庫で。
私は仏文科ではなかったけれど、フローベールは特に好きだったし教授の講義にも潜った。自分がジョイスの卒論を提出した後に会って話したときには少しフローベールの話にもなった。自分が卒論に「ジョイスの<意識の流れ>という手法はフローベールによる自由間接話法の影響が出発点だったのでは」というようなことを書いて、その後の口頭試問で英文科の卒論担当の教授に「自由間接話法はフローベールだけじゃなくもっと昔からあるんですよ。例えばジェイン・オースティンとか」などと指摘された。卒業のかかった場なので言い返さなかったけど「そんなこといったら<意識の流れ>はトルストイのアンナ・カレーニナにだってあるし、ジョイスより前に色々な手法を試みた作家はたくさんいる。ジョイスがフローベールを敬愛していたのは伝記を読めば明白なのに、なんでここで<なお自由間接話法はフローベールだけではなく多くの作家によって使われている>などと、わざわざ(その教授の専門でもある)オースティンの名誉を守らなきゃいけないのよ」と内心思ったことを伝えると「そりゃそうだ。ジョイスを英語圏だけでとらえて、大陸性を無視してるね」などと笑っていた。(今思えば大学を卒業した恩恵など今まで受けてないのだから言い返せばよかったな。今後も受けないだろうし)
当時からその教授はフローベールの自由間接話法について講義でよく触れており、新潮文庫の解説で詳しく説明されているのでよかったら参考に。
ということで、久々に「ボヴァリー夫人」を読んでいる。エマ夫人は医師である夫シャルルが仕事を終え帰宅し、夕飯を食べたあと医学書を開くもウトウトと眠り始めるのを許せない。より良い医学者になれるようもっと熱心になってほしい。患者の家族と言い合いになって言い負けて落ち込んでいる姿、帰宅するやいなや茹でたてのジャガイモを美味しそうに頬張る様子、あらゆることが気に入らなくなる。あわれなり、シャルル。年を取ったせいか、シャルルが一層に物悲しく映る。結末を知っている分、追い込まれていくエマの姿も痛々しい。
現代の倫理だとパワハラ、増収や暴力事件よりも不倫の方が嫌われることもあるようだから、エマの自殺も悲劇的ではなく自業自得として扱われるのだろうか。逆に不倫した夜にやや幸せそうに眠るモリー・ブルームは大悪人、「ユリシーズ」は悪のはびこる物語か?
当時猥褻ということで裁判にまでなった本作も、今は(削られた猥褻箇所を含めたとしても)どう見ても猥褻とは思えない。「愛人と乗り込んだ馬車は大きく揺れ、しばらく経つと紙が投げ出され、ひらひらと蝶のように落ちていった」みたいな描写からどう卑猥さを読み取れと?(そりゃ読み取ろうと思えば読み取れるけど)
人や作品は変わらずとも、時代が変わる。とはいえ、「ボヴァリー夫人」を読んで「不倫は最低、因果応報」みたいな結論しか導き出せない社会はあまりに窮屈で幼稚だね。現代がそこまでは陥ってない、と期待するばかり。