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阿部恭平の
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Vol.180
2021 12/28 Tue.
カテゴリー:

2021 年末の一日

「文体とはテクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題である」
プルーストの評論か何かでの表現だが、時おり思い出している。実際にその通りなんだろうな、とも思うし、他のあらゆることにも通じる気がする。絵画や写真に映像などはもちろん、彫刻や音楽、下手すればスポーツや料理にだってそのまま当てはまる表現かもしれない。どうやるか、ではなく、どうとらえるか、によって物事はかわる。
思えば、フランス語では演奏をinterpreterという動詞で表現することがある。Bach interprete par Glenn Gould(グレン・グールドによるバッハ)みたいな感じに。この動詞は「解釈する、翻訳する」とか訳されることが多いのだが、演奏の際にも自然に使われている。日本語ではなかなかこういうことは言わないね。「反田氏のショパン解釈は独創的だ」みたいな言い方はするけど「あの日はコルトレーンのナンバーを解釈した」などとは言わない。(あ、今さらだがフランス語のaccent記号の入力は面倒なので無視してます、あしからず)
自分は学生の頃、文章がうまくなりたかったし、文体を作れるようになりたかったもので、翻訳の真似事として好きな英米文学の短編を訳していたが、音楽をやるようになって採譜、トランスクライブの作業を始めて「翻訳作業に似てるなあ」と思った。文、音を自分を通して文字化(音符として記号化)する作業という意味でも通じるし、だいぶ昔流行った表現でいうと「脱構築、再構築」ってことなるのかな。そしてフランス語風に考えてみると、「解釈すること」自体が「演奏すること」に通じていることになる。
「なぜ小説家になったのか?」の問いへの正統的な返事が「小説を読んだから」であるように、「なぜ演奏をするのか」に対しては「演奏を聞いたから」となるのかもしれない。それこそ脱構築、再構築という表現が似合うほど聞くことに没入すれば、人は演奏を聞いた時点で演奏しているとも言える。なんの楽器も持たずに、声を発することなくとも。

何やら深そうな話題になったが、もう年の瀬。クリスマスから大晦日までのわずかな平日こそ年末を実感するし、一月も十日ぐらいになってやっと新年を実感するんだろうな。大晦日、年越しの瞬間、正月の儀式めいたことにはどうしても思い入れを持てず、その前後の何でもないような日の方が身近に感じる。これは本当に幼い頃からの習慣だからどうしようもない、この年までそうなんだから一生こうなんだろう。

最後に一応。今年も一年お世話になりました。自分なりに向上できるよう日々励むつもりなので、来年もよろしくお願いします。

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