ソレルスの死から自意識について
5月の初め。以前にもこのブログで取り上げたソレルスという作家が亡くなり、少し物思いにふけっている。大好きな作家というわけでもないのだが、数少ない学生の時分の友人はソレルスを好む人が多く、私も彼らから話を聞き多少なりとも影響を受けた。
ソレルスについての説明はこちらにhttps://blog.urbantalesdesign.tokyo/abe/2018/04/07/phillippe-sollers%e3%80%80picasso-le-heros-2/
書いたので省く。(しかしこれも2018年、5年も前か。自分が精神的に成長していないことがよくわかる)作品がどうのこうのではなく、振舞い方みたいなことを考えさせられている。もし彼がデビューしてから、その頃に大御所達から絶賛された心理小説の形式を追求していたらどうなったのか。ヌーヴォーロマンの代表の一人として扱われたときに、ある種のカタルシスはあったのだろうか。そもそも彼は何になりたかったのだろう。仮にソレルスが「いつまでも~の作家というレッテルを貼られるのはコリゴリだ」というような反骨精神みたいなもので活動をしていたならば、その精神にはどのような意味があったのか。
こういった問題はあらゆることに起こる。自由に振る舞おうとするあまり、何かに意識がとらわれて不自由になる。芸事でもよくあるよね。自由になりたいと意識するあまり、不自然なことをやって「これは新しいぞ!」と満足してる人。目的のための手段ではなく、手段の目的化。そしてすごい狭い世界のなかだけで賞賛をあびる。あ、これってヌーヴォーロマンそのものじゃないか。(とかいうと、ヌーヴォーロマンのファンに怒られるんだろうな)
そうなると自由とは、無心とはなんなんだろうな。そして他者、あるいは評価は好意的であろうとなかろうと、人を大きく変える可能性がある。何がしたいのか、どうしたいのか、何の(誰の)ためにしたいのか。正確に答えることは意外と難しいことなのかもしれない。無心になろうとしても難しい、しかし他者を必要以上に意識するのも窮屈。一人で生きるのは寂しすぎる、二人で生きるのは辛すぎる。映画のセリフ通り。
ともあれソレルスの死。ヌーヴォーロマンという運動の最後の人物が亡くなった。時代は終わるし、時代は変わる。将来ヌーヴォーロマンなんてもの、今以上に知られなくなるんだろうな。それをそこまで嘆くつもりもないけれど。