悲しいお顔の右大臣
金槐和歌集を買ってみた。自分は和歌には疎かったけど若い頃に興味があったのは新古今、あるいは古今和歌集だった。難しいけどかっこいい、そんなものに憧れるのも若さのあらわれか。
今どうか、と言われたらどうだろう。式子内親王や藤原俊成女(俊成氏の娘を、女と書くのもこの時代ならではだよね)の歌は好きだけど、とにかく小難しい。その点、実朝さんの歌はわかりやすい。そういえば鎌倉殿の大河ドラマでも扱われてた。
谷崎潤一郎は『藝術一家言』で「若いうちは肉を好むように西洋の芸術にハマる。年をとると東洋趣味になり、食事もあっさりしたものを好むようになる」と語っている。谷崎自身も若いうちは「東洋文化なんかにハマらないよ」と思いながら中年になった頃からやっぱり東洋の文学にシフトしたらしい。『陰翳礼讃』なんかそのわかりやすい例ですね。日本の美とは食器でいうと、お椀の黒と赤の簡潔さ、というやつ。(これはレヴィ=ストロースも日本の簡潔さの美徳について、似たようなことを言っている)
東洋趣味は別として、自分も難しさを売り文句にしているものからは自然と距離を置くようになっている。文学も映画も絵画も、もちろん音楽も。昔は多少難しくてわけのわからないものにも一度はしっかり触れてみよう、なんてやっていたけど、今は積極的に触れることはない。触れたときにはたいてい「なんで素直にやることを避けるんだろう」と思う。しばらく経った後に「これがこの人の素直な作品だったのか」とわかることもあるんだろうけど。
改めて考えると、難しいかどうかが問題なのではなく、素直なのかが気になっているのかもしれない。先日もう片方の『文学と音楽』の方にも書いたけど、例えばボーカルの話。技術や希少かどうか、なんかよりも素直な、自然な声に魅力を感じる。ファルセットがすごいとか、声量がすごいとかよりも、自然に発生しているものが、結局は飽きないし好ましい。そういう意味じゃ実朝さんは将軍だから働く必要もないし、大衆に褒められる必要もない。そんな中で無欲に書きたいものを素直に書けた、という精神性が素晴らしい。無欲ってのは本当に難しいことだから。
そんなわけで最近は枕元に金槐和歌集を置いて寝る前にパラパラやるようになった。秋の夜長にはちょうどいい。そうそう、実朝本人ではなく太宰治の創作だけど、以下の表現もお気に入りだ。「アカルサハホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」
自分自身を明るい性格とは思ったことはないけど(意外ですか?)、それも悪くないのかもしれない。









