>

Kyohei
Abe
OFFICIAL BLOG

阿部恭平の
ブログ

Vol.149
2021 02/05 Fri.
カテゴリー:

幼稚な現実と成熟したフィクション

読書、とはちょっといいこぶって聞こえる趣味なんだろう。よく私もここで本の話をしているが、別に読書しないことを批判するつもりはない。色々と本を読んでいるのに偏屈、不自由な考え方をしてる人なんて山ほど見てきた。かく言う私だって残念ながら、その一人なんだと思う。本を読まない人の話に知性を感じさせられることもしょっちゅうある。(ただしテレビに出てただけの人間が選挙に立候補するのをみると、マルクスでもプラトンでも、最低限の課題図書でも設けた方がいいんじゃないか、と思うけれど)
さて去年より頻繁に目にするようになった意見として「老人はいずれ亡くなるもの、老人のために未来のある若者が犠牲になるのはおかしい」というようなものがある。そこから発展させて「老人がウィルスに感染し亡くなるのは仕方ない、若者の生活を守れ」となるようだ。文句自体は正論に聞こえる。ただしこういう意見を声高に迷いなく言う人達に対し、私は「『罪と罰』を読んだことないのかな」という感想を持った。そう、ドストエフスキーの代表作のあれである。
主人公のラスコーリニコフが「身寄りもなく、若者からお金をむしりとる高利貸しの老婆なんて死んだ方がマシだ、みんな救われるじゃないか」と考えるところから始まる。『罪と罰』を読むのは中学生、高校生ぐらいが一番多いのではないだろうか、そのぐらいの頃が特に集中して読めるものだと思う。(もちろん作品を軽んじてるわけではない。ドストエフスキーもニーチェも名作故に10代ぐらいの年代がはまり、年を重ねても楽しめるのだと思う)この発想を正論ととらえるかどうかは受け手の自由である。ただしラスコーリニコフがどうなるか、どうあるべきか、作品を真剣に読んでからの話だが。
文学のみならず、芸術作品の効用というのはささやかなものなのかもしれない。太宰の『眉山』を読めばトイレに近い人をいたずらにバカにしなくなる、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』を読めば頭のなかに太っちょのおばさんをイメージして前を向ける。第九やジミ・ヘンドリックスのギターを聞いて精神的に元気づけられることもある。その程度のこと。しかし「その程度のこと」の積み重ねで世は動いている。声高に現実を語る人は決まってフィクションを幼稚と軽んじる。しかし現実を作る「その程度のこと」にはフィクションや芸術が多く関わっていることを、現実を知るはずの彼らは知らない。

この投稿をシェアする
WEBブラウザでFacebookアカウントにログイン状態にするとコメントを残せます。

阿部恭平の広告

阿部恭平のINSTAGRAM

  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram
  •  Instagram

阿部恭平のブログカテゴリー

阿部恭平のブログアーカイヴ

阿部恭平のブログ検索

一番上に戻る