悪口について
先日たまたまニュースで自分の母校に関する話題があがっていた。ある文学部の教授がかつて自分の生徒にセクハラ、アカハラをしていて改めて裁判で罰された話。
自分がいた頃、彼は教授でも講師でもなかったが、何度か文学雑誌で対談なんかをしてるのを読んだことがあった。「なんだ、この蓮實重彦の太鼓持ちみたいなやつは」ぐらいの感想しか抱かず特に良い印象は全くなかったが、今となっては「しょうもないやつだ」ぐらいしか言いようがない。被害者はお気の毒と思うが。
気になったのは事件の詳細ではなく、判決の材料のごく僅かな箇所だった。彼は被害者の女性が尊敬している作家を講義中に罵倒し続けたらしく、それもアカハラの材料になるらしい。なんてことだ。しょうもない人をかばうつもりはないけど、作家を罵倒したら(場合によっては)ハラスメントになってしまうとは!ピーター・バラカン氏のラジオによって世界のレッド・ツェッペリンファンはハラスメントを受けている?いやいや、まさか。
人の好みは千の嫌悪から生まれる。と、ヴァレリーの言葉。人は何かを嫌ったり拒む権利があるし、その理由をつきつめれば悪口になるのは当たり前だろうに。自分の学生の頃は当たり障りない話よりは「ロストジェネレーションの作家は一切認めません」とか、そういう話の方が好きだった。批判されたものを実際に読んで、あとは自分で判断すればいいわけで。悪口にはコンプレックスや何かしらのトラウマが絡んでることもあるし、所詮は個人の意見なんだから。悪口ではないけどブラッドメルドーが「エバンスなんか興味ない、大して聞いてない」なんてのをそのまま受け入れるのもうぶ過ぎるし、フェリーニが批評家から「あなたの8 1/2にはジョイスの影響がありますね」とか言われて「そんな作家、読んだことない」と答えた話も、疑ってかかる方が自然だろう。
そもそもなんらかの敬意があるからこそ悪口になるとも言えるね。家族の愚痴とかそうでしょ、興味ない人の悪口なんて普通は言わない。個人的にはバラカン氏のツェッペリン批判も芸として楽しめるし、かつて行われたというナボコフのドストエフスキー批判の講義なんか金払っても聞きたい。石川淳の「敗荷落日」なんかも荷風に対する敬意や愛情が感じられて大好きだった。そもそも本当に悪口を嫌うような性格ならともかく「まわり(←誰なんだろうね、これ)から非難されるから人前じゃ悪口を言わない」なんてのも、それはそれで窮屈だし、ある意味口悪くて叩かれる人よりもずる賢、、。おっと、悪口になるからやめておきます。